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The Humbug and the Air Man

ペテン師と空気男
written by Edogawa Ranpo 1959
*底本 :『江戸川乱歩全集』第12巻「影男」(講談社、1970年)
  • 初出 :『書下ろし推理小説全集』第1巻 (桃源社刊、昭和三十四年十一月)
  •  :殺人ごっこ(一)(二)章に現れる暗号で、※の箇所は、原文では「+」の文字が縦に2つ並んだ一字である。


空白の書籍


 このお話は時と所にたいした関係はない。仮りに第二次大戦中から後にかけての出来事として書くことにするが、もっと別の時代でも一向さしつかえはない。登場人物は日本人でないとわかりにくいので、そうしておくが、外国人でも構わないのである。つまりワンス・アポン・ア・タイ厶・ゼア・ウォズ云々というわけなのだ。さて、まず、この物語の主人公のわたしという男が、どういう人物であるかを自己紹介させることにする。

 わたしは「空気男」というあだ名をつけられていた。「空気男」というと、透明人間かなんかを連想されるかもしれないが、そういうものとは、まるでちがった凡人中の凡人、いや、凡人よりももっとダメな男を意味するのである。

 わたしは青年時代から、物忘れの大家であった。人間には忘れるという作用が必要なのだが、わたしのは、その必要の十倍ぐらい物忘れするのである。きのう、あんなにハッキリ話し合ったことを、きょうはもうケロリと忘れている。相手にとって、これほどたよりないことはない。ある時、友だちのひとりが、空気のようにたよりない男だと言い出して、それから「空気男」のあだ名が生れた。

 抽象的なことは割によく覚えているが、具体的な数字とか、固有名詞とかを忘れてしまう。時間のこともハッキリしない。きのうの何時に何をやっていたかというような記憶がダメなのである。

 わたしの記憶には物事が写真のようには焼きつかないで、その奥にある、何かへんてこな抽象的な漠然とした形のものが焼きつくのであろう。わたし自身でも「空気男」というあだ名は、なかなかふさわしいと思っているくらいだ。

 喜びも、悲しみも、恨みも、忘れてしまうことが早かった。そのために、ときには忘恩の徒とののしられ、また、あきらめのよい男とほめられることもあった。

 したがって執着心の淡い男である。しかし、一方では、ひどく神経質なところもないではなかった。

 物を書くのにいちばん大切な記憶力を欠いているのだから、この話も、書いて行くうちに辻褸の合わないことも出てくるだろうが、しかし、わたしは具体的事実を、記憶からではなく、空想で作りあげて、辻棲を合わせることは、割合得意なのである。幾何学的論理をもてあそぶのは好きだし、多少自信がないでもない。どんなものが書けるか、まあやってみることにしよう。案外うまくいくかもしれなわたしはそういう凡人よりもダメな男であるが、そのくせ、世の中の平凡なことには興味がない。風変わりなもの、異常なことに惹きつけられる。と言っただけでは充分でない。どんな異常な出来事でも、実際にあった事件、新聞や秘密通信が知らせてくれるような事件には興味がない。実際の人殺しにはまったく興味がないけれども、人殺し小説には、それもできるだけ架空なやつに、大いに惹きつけられる。写真ではなくて、画空ごとの方が好きなのである。

 これを書いているのは昭和三十四年だが、書かれる出来事はもっとずっと前のことだ。わたしの三十歳ごろ、つまり、第二次大戦の中期から、この話ははじまるのだ。そのころ、わたしは独りでアパートずまいをしていた。まだ独身で、身内といえば母親ひとり、その母親が田舎で小金をためて、よろしく暮らしていたので、わたしは母親から小遣いをせびって、なにもしないでブラブラしていることが多かった。

 全然なにもしなかったのではない。ときどき、先輩にたのんで、会社勤めなどやってみるのだが、半年とはつづかなかった。新聞記事や写真に興味がもてないように、うつし世のなりわいに興味がもてなかったからである。

 母親からの送金をたのみにして、勝手に勤めをやめてしまうのだが、では、勤めをしないでなにをしていたかというと、ほとんどなにもしていなかった。安アパートの四畳半の畳の上に寝ころがって、つまらない講談本などを読みながら、灰皿に吸殼の山を築いていたのである。

 講談本というものは今は影をひそめたようだ。いくらかあるにしても、みな「読みもの」に書き直したようなものばかりで、一向面白くないが、昔の講談本は講釈師の名人の口調をそのまま写したもので、そこに言いしれぬ妙味があった。そういうものを貸本屋から探し出してきて、読んでいたのである。

 探偵小説や怪奇小説も大好物であった。「早川ミステリ」などという便利なもののない時代だったけれども、西洋ものも日本ものも、いろいろ出ていたので、これも貸本屋から借り出してきて、むさぼり読んだものである。

 だが、いつもアパートに寝ていたわけではない。スポーツには一向興味がなかったが、映画も見に行ったし、寄席へも出かけた。また、たまには必要をみたすために、今のパンパンよりは、もっと旧式なものの所へも、出かけたものである。酒もきらいではないが、余り強くはなかった。

 ところが、あるとき、わたしは、世にも不思議な男と、その妻とに出会った。そして、それがわたしの生活を一変させたのである。

 そのとき、わたしは、国の母親から送金があったばかりで、ふところが暖かかったものだから、ブラリと東京駅へ行った。

 わたしは映画や寄席のほかに、駅というものが好きであった。「群集の中のロビンソン・クルーソー」をきめこむのに、もっともふさわしい場所だったからである。それには上野駅がよかった。わたしは、あのゴチャゴチャした駅の構内をグルグル歩きまわったり、三等待合室のベンチに腰かけて、長い時間じっとしていたりした。

 しかし、そのときは、なぜか上野駅ではなくて、東京駅へ行ったのである。そして、待合室に腰かけてみたり、乗車口の広いホールをブラブラしたりして、群集を眺めているうちに、なんとなく汽車に乗ってみたくなった。

 わたしは、一、二等切符売場へ行って、とりあえず静岡までの二等切符を買った。前にもいう通り、ふところが暧かだったからだ。急行ではなくて、普通列車であった。

 わたしは、むろん、旅の服装はしていなかった。ふだん着のカスリの着物にカスリの羽織を着ていた。そのころはまだ、町を歩いている人の半分は和服を着ていたものだ。

 各駅停車のゴトゴト列車だから、二等車もそんなに混んではいなかった。ところどころ空席があるほどだった。私が窓際にかけた席には、向こう側にも二人、私のがわにも二人、いっぱいに腰かけていた。私の隣は四十ぐらいの奥さんらしい人、向こう側の窓際には、濃い髪をきれいに分けて、チョビひげと、小さな顎ひげのある、面ながな色白の紳士が、悠然と腰かけていた。黒いネクタイ、黒背広、黒い靴下、黒靴という地味な、しかし気取った服装であった。年ごろは、わたしより五つ六つ上に見えた。その隣には、会社の幹部社員といった感じの五十年配の洋服の人が、新聞をひろげていた。

 わたしは横浜駅で、早くも駅弁とお茶を買った。わたしは駅弁が大好物なのである。あの折詰めの固いごはんに、固い煮肴、卵焼き、かまぼこ、牛肉、蓮根、奈良漬などの、普通の人には少しもうまくない駅弁が大好きなのだ。だから、汽車にのると、時分どきでなくても、何度でも駅弁を買ってたべるくせがある。駅弁がたべたいために汽車にのるのだと言ってもよいほどである。それも鰻丼や鯛飯や洋食弁当ではなくて、あの折詰め弁当に限るのだ。

 弁当をゆっくりたべおわって、折の底にのこっている飯粒を、一つ一つ拾うようにしてロに入れてから、空になった折箱を包み紙でくるんで座席の下へほうりこむと、さて、顔を上げて車内の風景を見わたすのであったが、ふと、隣席の奥さんの眼が、わたしの前の黒ずくめの紳士の膝のへんに、釘着けになっているのに気がついた。紳士の膝の上に、なんだか途方もないことがおこっていたのである。

 紳士は膝の上に一冊の本をひろげて、うつむいて読んでいるのだが、その本の頁には活字が印刷されていなかった。ひらいた頁が両方ともまったく空白なのである。隣の奥さんも、それを怪しんで、あんなに見つめていたことがわかった。わたしの眼だけが、どうかしていたのではない。

 わたしがそれに気づいたことを知って、奥さんが、わたしを見た。眼と眼がぶつかった。「おかしいですわね」という眼であった。しかし二人とも、ぶしつけに笑うことはしなかった。こちらの眼がまちがっているのかもしれないという気持が、多分にあったからだ。

 もしかしたら、この本は特別の白っぼいィンキで印刷してあるのではないか、それとも、ひどく小さな活字で印刷してあるのではないかと、眼をこらしたが、まったくなにも見えない。ただの白紙としか感じられない。

 黒ずくめの紳士は、夢中になって空白の本に読み入っていた。なにか面白いことが書いてあるらしく、ニヤニヤ笑いながら頁をめくったが、その次の二頁にも、活字は印刷してなかった。まったくの白紙なのである。

 そのとき、黒服紳士の隣の幹部社員らしい五十男が、ずっと読みつづけていた新聞を、座席のうしろにおしこんで、タバコに火をつけたが、わたしと奥さんの視線に気がついたらしく、この男も黒服紳士の膝に眼をやって、びっくりしたような顔をした。そして、なにか言いたそうにして、隣の黒服紳士の横顔を、しげしげと眺めたが、別になにも言わなかった。この幹部社員はせんさく癖のない人ら しく、そのまま、からだの向きをかえて、座席の横においてあった週刊雑誌をとって、読みはじめた。

 しばらくすると、黒服紳士は、読書の姿勢をかえるために、片手で本を眼の高さに持ちあげたので、青黒いクロー ス表紙の背中が、こちらから見えるようになった。そこには、

  デ・クィンシィ 殺人芸術論

 と、金文字で印刷してあった。

 阿片吸引文学者のあの有名な「芸術としての殺人」は、以前に谷崎潤一郞が雑誌に邦訳連載したことを覚えていたが、本になったのは知らなかった。今わたしの目の前にある本の背中には、訳者の名が印刷してない。おそらく谷崎の訳ではなく、別にこんな本が近ごろ出版されたのであろう。だが、なにしろ「空気男」のわたしのことだから、余りいばったことは言えない。この「殺人芸術論」は、案外世間によく知られている訳本なのかもしれない。

 それにしても、この本の頁が空白なのはどうしたことか。それを、この男はさも楽しそうに、眼で次々と行を追つて読み耽っているのは、どうしたことか。

 一見空白のようだが、或る色の目がねをかけると、はっきり字が読めるという、珍らしい本が発明でもされたのではないかと、ふと考えたが、この紳士は目がねをかけていないのだ。いかにも鼻目がねでもかけていそうな感じなのだが、よく見ると、目がねはかけていないことがわかった。


金の壺


 紳士は、あいかわらず、空白の本に読みふけっていた。ときどき頁をくる音が、映画の中の紙の音のように、耳だってきこえる。わたしは、網棚の上のものを取るふりをして、立ちあがり、こちらに背を向けている本の頁をのぞいてみたが、その頁はやっぱり空白であった。一字の活字も印刷されていなかった。わたしは夢を見ているのではない かと疑った。夢ででもなければ、こんな不思議なことは起こりっこないからである。

 わたしは、昼間、起きているときでも、半睡半醒の状態になることがある。これも「空気男」の属性の一つなのだが、それが乗り物の中では最も起こりやすいのである。

 いつか上野駅から仙台の方へ汽車に乗っていたときのことだ。雑誌を読んでいて、ふと眼を上げると、わたしのまん前に、びっくりするような美人が、もうずっと前からのように腰かけていた。わたしは彼女が、いつの間に、そこへはいってきたのか、まったく気づかなかった。

 彼女を一と目見たとき、わたしはからだがしびれるように感じたほど、おそろしく美しい女であった。その女の顔だけが、スポットライトをあてたように、あたりのたくさんの顔から、際立って浮き出して見えた。

 わたしは、見ないふりをして、その女の顔を長いあいだ見ていたが、また雑誌に眼を戻して、しばらくして顔をあげると、女はかき消すようにいなくなっていた。出ていったのを少しも気づかなかったのである。トイレへでも行ったのかと、駅を一つすぎるまで、心待ちにしていたが、わたしの前はそのまま空席になっていた。

 席が変わったのかもしれないと思ったので、わたしは用もないのに立って行って、その箱はもちろん、前後の二つの箱を歩いてみたが、女はどこにもいなかった。今の女は、わたしのくせの白昼夢だったとしか考えられなかった。

 そんな連想をしながら、わたしの前の紳士を観察していると、また、妙なことに気がついた。

 最初チラッと見たとき、この紳士は目がねをかけているように感じた。しかし、よく見ると、目がねはなかった。なぜ、そんな感じを受けたかというと、鼻目がねについている黒い紐のようなものが、紳士の耳から頰に垂れていたからである。わたしは空白の本のほうに気をとられて、つい忘れていたのだが、よく見ると、それは、実に不思議な黒紐であった。

 それは、黒い絹の平ベったい紐で、一方の端を輪にして耳に引っかけ、それをずっと下にたらして、もう一方の端を口にくわえているのだ。思い出してみると、ずっと前から、口にくわえたまま、一度もはなさなかったようだ。紐の先に何かくっついていて、それをしゃぶっているのだろうか。いや、そうではなさそうだ。口の中のどこかに、しっかりゆわえつけてあるという感じがする。

 この紐の謎は空白の本と同じくらい不思議だった。いったい、なんのために、黒い絹紐が耳から口につながっているのであろう。

 それから長い時間がたった。隣の奥さんと、筋向こうの幹部社員らしい男とは、国府津で降りて行って、あとは空席のまま残っていた。

 わたしと黒服紳士とは、二人だけのさし向かいになった。紳士は依然として、黒い絹紐の端をくわえたままでいる。もう本は読んでいなかった。さっき、本をとじて、わきにおいた書類カバンの中へ入れるのを、わたしは見ていた。

 しばらくすると、紳士はポケットから紙の袋を取り出した。中には十個ほどのキンカンの実がはいっていた。かれはそれを一つつまんで、ポイと口の中へほうりこみ、皮のまま嚙みはじめたが、そうして物をたべるときにも、黒い絹紐は決してロからはなさないのである。

 わたしは好奇心でウズウズしてきた。「空気男」だけれど、人一倍好奇心が強いことは前に書いた。わたしは、二人だけのさし向かいになったのを幸いに、紳士に声をかける決心をした。

「はなはだ失礼ですが……」

 と、唐突に話しかけてみた。紳士は静かにわたしの顔をみて、あとを促すようにだまっていた。小さな顎ひげが、 いかにもスマートで、中年のしゃれ者という感じが一層強まってきた。

「その黒い紐を口にくわえていらっしやるのは、どういう わけですか。汽車にのったときから、一度もはなさない で、くわえていらっしやるし、物をたべるときも、くわえ たままなのは、なぜでしょうか。わたしは、それが不思議 でしかたかないのです。へんなことをおたずねする失礼は どうかお許しください」

 すると、紳士はちょっとあたりを見廻すようにして、わたしだけにきこえるぐらいの声で答えた。

「ああ、これですか。ご不審はごもっともです。しかし、なんでもないのですよ。ただちょっと実験をしているだけでしてね」

 そういって、ニヤリと笑った。メフィストのような一種異様の笑いであった。

「実験といいますと?」

「実はわたしは順信堂大学に勤めている医者でしてね。そこの六人の仲間と、<templatestyles src="Ruby/styles.css" />柑橘類(かんきつるい)の胃液に及ぼす作用の実験をはじめたのですよ。六人が一つずつ別の果物を引き受けましてね。わたしはキンカンの受けもちというわけです。わた しはこの一週間、キンカンのほかにはなにもたベていないのですよ。

 ところで、この黒い紐ですがね、この紐はわたしの胃袋まではいっているのです。紐の先にはごく小さな金の壺が括りつけてあって、四時間ごとに、それを引き出して、壺にたまった胃液を、この瓶の中へあけるのですよ」

 紳士は、上衣の内ポケットから、だいじそうに、平べったい茶色の薬瓶を取り出して見せた。その中には三分の一ほど、ドロッと泡立った液が溜っているのが見えた。紳士はそれを内ポケットに戻しながら、

「これを大学の化学実験室へ持って行って、しらべた上、記録をとるのですがね。」

 わたしはポカンと口をあけて、この不思議な話を聞いていた。可愛らしい金の壶というものに、なんともいえない魅力を感じた。

 その魅力を嚙みしめるように、しばらくだまっていたが、やがて、もう一つの疑問もたしかめてみることにした。

「もう一つおたずねすることをお許し願えますか」

「ええ、どうか」

 顎ひげの医学者は、にこやかに答えた。

「さっき、デ・クィンシイの『殺人芸術論』を読んでいらっしやいましたね。わたしも、あれは前に読んだことがあるのですが、本になっていることは知りませんでした。ちょっと拝見願えませんでしょうか」

「いいですともさあ、どうかごらんくたさい」

 医学者はそういって、わきの書類カバンから、あの本を取り出して、わたしに手渡した。

 パラパラと頁をくつてみると、アッとおどろいたことには、どの頁にも8ポ活字が印刷してあった。空白の頁など一つもなかった。内容もたしかに「芸術としての殺人」であった。奥付けを見ると、その年の出版で、訳者も出版社もわたしの知らない名前であった。谷崎訳ではなかった。

「どうもありがとう。これは面白い論文ですね。殺人のエチケット論というようなものですね。オピアム・イータアのほうは、いかがですか。御職業がら、あれにも興味をお持ちだと思いますが」

「ええ、愛読しました。両方とも面白いですね。あなたもこういうものに興味をお持ちですか」

「大好物ですよ。ほかの例でいえば泥棒上がりの名探偵ヴィドックの自伝だとか、もっと学問くさいものではロバート・バートンの『憂欝の解剖学』だとか……、ああ、バートンといえばリチャード・バートンの方の『千一夜』の付録論文も面白いですね」

「おお、おお、あなたは、そういうものがお好きなのですか」

 医学者は、おお、おおと、外国人みたいな発音をして、さもわが意を得たといわぬばかりに、顔をほころばせた。

「それにしても、おかしいですね。さっき、あなたがこの本を読んでいらっしやるのを見たら、どの頁もまっ白で、 なにも印刷してないように見えましたが……」

「へえ、そうでしたか。そりゃおかしいな。あなた、眼の病気はありませんか。一度眼科の人に見ておもらいになる方がいいかもしれませんよ」

 それをきくと、わたしは例の半睡半醒の白昼夢のことを思い出して、少しこわくなってきた。そこで、実はこういうことがあるのですがと、その実例をいろいろとあげて、

「こういうのは眼の病気なのでしょうか」

 と、たずねると、医学者は眉をしかめて答えた。

「専門外だからよくわかりませんが、ひょっとしたら神経症かもしれませんね。いずれにしても、一度まず眼科の方でしらベてもらう方がいいのじゃありませんか」

 そんな話をしているうちに、汽車は沼津駅にはいった。それと知ると、医学者は慌てたように「殺人芸術論」を力 バンにしまって外套を小脇に、そそくさと立ちあがった。

「わたしは、ここで降りなければなりません。では、失礼します」

 そういいのこして、いそいでデッキのほうへ歩いて行った。


ジョー力ー


 わたしは、狐につままれたような気持で、ポカンとしていたが、とっさに、妙な冒険心が湧きあがってきた。あの黒服の医学者にこのまま別かれ(sic!)たくないと思った。かれのメフィストじみた風貌や行為が、わたしの心をひきつけてしまったのだ。東京駅からなんとなく乘りこんだ行く先さだめぬ旅だから、どこで降りてもかまわない。いっそここで降りて、あの不思議な魅力を持つ紳士のあとをつけてやろうと思い立った。一つの冒険である。それがわたしの心をそそった。

 窓からのぞいてみると、黒服のメフィストは、黒い合外套を着て、書類カバンを小脇にかかえて、プラットホー厶を改礼ロのほうへ歩いていくのが見える。わたしはすぐに車室を出て、そのあとを追った。

 もう夕方で、あたりがうす暗くなっていたけれど、尾行の経験を持たぬわたしには、相手にさとられぬように、あとをつけるのは、相当むつかしい仕事だった。

 メフィストは、車にものらないで、駅前の広場から、一本の広い町へはいっていった。歩くところを見ると、宿はそんなに遠くはないらしい。

 相手が町角を曲がったので、わたしも足を早めた。そし て、ヒョイと町角から顔を出すと、そこに、メフィストが

ニヤニヤ笑って立っていた。

「あなたは尾行がうまくない。さっきから、ちゃんと知っていたのですよ。どうです、わたしの宿はついそこです、いっしょに来ませんか」

 わたしもニヤニヤ笑うほかはなかった。

「ええ、もっとあなたと話したかったものですから……」

「わかってますよ。わかってますよ。さあ、ごいっしょしましょう」

 そして、わたしたちは、黒服紳士の行きつけらしいその中級の旅館に泊まることになった。

 黒衣のメフィストは医学者でもなんでもなかった。わたしと同じような、しかしわたしよりはずっと裕福な有閑人種にすぎなかった。

 名前は伊東錬太郎と名乗った。そして、驚いたことには、かれのチョビひげと、小さな顎ひげは、実は変装用の精巧なつけひげであることがわかった。かれは、ゆかたに着かえて、風呂にはいる前に、ニヤニヤ笑ってわたしの顔を見ながら、その二つのつけひげをむしり取って見せた。すると、かれの顔が、まるで別人のように変わってしまった。もうさっきの黒い絹紐もくわえてはいなかった。

 風呂からあがると、わたしたちは、チャブ台をはさんで、酒をくみかわした。

「野間さん、あなたはプラクティカル・ジョークということを御存知でしょう。わたしはプラクティカル・ジョー力ーをもって自任しているのですよ」

野間というのはわたしの名である。野間五郎というのだ。メフィストはこのときはじめてプラクティカル・ジョーカーの正体を現わしたのである。

「冗談のいたずらという意味ですね」

「まあそうです。しかし、プラクティカル・ジョークというものは、れっきとした芸術ですよ。ぼくはいささか、その方面の研究をしているものです。西洋には有名なジョーカーの伝記が、いろいろ出てますよ。日本でも滝亭鯉丈の『八笑人』や梅亭金鵞の『七偏人』などが大がかりなプラクティカル・ジョークを題材にしている。しかし、あのジョークは大がかりなわりに、創意は乏しいですね。

 膝栗毛の十返舎一九は小説でもジョークを書いたが、かれ自身が大ジョーカーでしたね。かならず自分を火葬にしろと遺言して、自分のからだに花火をしかけておいて、みんなを驚かせた。ところで、これと同じことをやつたアメリカ人がいるんだから面白いですね。

 スカイラークという町のチャールズ・ポーターという金持ちですがね。やっぱり遺言をした。自分が死んだら、庭で焚き火をして、寝室の戸棚にしまってある『秘密』と書いた箱を出して、封のまま焚き火に入れて燃やしてくれというのです。

 このポーター氏には三人の息子がありましてね。それぞれ財産を譲られたので、親父の遺言は無にすることができない。その箱の中には、なにか親父の生涯の秘密が隠されているのだろうと、封をひらかないで、庭の焚き火の中へ入れて、燃えつきるのを待ったのです。その三人の息子と、弁護士とが立ち会っていたのですね。

 すると、箱の中へ火が通ったかと思うと、おそろしい爆音が鳴り響いて、いろいろな形のうつくしい花火が一斉に炸裂したというのですよ……ジョー力ーの心理というものは、西も東も変わらないものですね」

「すると、あなたのさっきの金の壺の話もジョークだったのですね。ただ黒い絹紐をくわえていらしっただけですね」

「そうですよ。ちょっと気の利いたジョークでしょう。しかし、白状すると、あれはわたしの発明じゃない。ずっと前に、ジム・モーランというアメリカの哲学者が、実際にやって成功したジョークです。

 モーランは旅客飛行機にのって、あれをやっていたのです。その飛行機に多勢の大学のフットボール・チー厶が乗り合わせていた。大学生たちは、むろんあの黒い紐に気づいて、ヒソヒソと話し合つていましたが、そのうちに、くじ引きをして、くじに当たった学生が、モーラン氏のところへ来て質問した。その答えは、さっきわたしがしたのと同じだったのです。もっとも大学の名はジョンズ・ホプキンズでしたがね。

 学生たちは、さっきのあなたのように驚きました。かれらは各地方から集まっている学生なので、それぞれの郷里へ帰って、この奇妙な話を広めてくれるかと思うと、実に愉快だったと、モーラン氏はいっているのです。そこにジョーカーの人知れぬ愉しみがあるわけですね。

 わたしはあの金の壺のジョークを、パーティだとか汽車の中などで、たびたびやってみました。しかし、ジロジロ見るばかりで、誰もたずねてくれないのです。たまにたずねてくれる人があっても、きょうのあなたみたいに強い反応は起こさないのです。あなたもやっばりジョー力ーの性質をお持ちになっているのですよ。あなた手品がお好きでしょう」

「ええ、手品も好物の一つです」

「ほらごらんなさい。手品と、詰将棋と、探偵小説。ね、そうでしょう」

「その通りです。あなたもですか」

「ええ、ぼくもですよ」

 酒の酔いも手伝って、わたしたちは、すっかりうちとけてしまつた。わたしはこの男となら友だちになれる。おそらく親友になれるだろうと思った。先方でも同じように感じているらしい。

「ところで、さっきの『殺人芸術論』ですがね。あれも手品だったのですか」

「むろんですよ。『金の壺』の演技の前奏曲ってわけですよ。もうおわかりでしょうが、カバンの中に同じ本が二冊用意してあるのです」

 伊東錬太郎君は、床の間においてあった書類カバンを引きよせて、まったく同じ装幀の二冊の「殺人芸術論」を取り出して見せた。一冊は普通に印刷された本、一冊は全頁空白の本である。

「ぼくはこの本屋のおやじと友だちなのですよ。本屋は本を印刷する前に、装幀見本というものを作るのです。それには印刷するのと同じ紙を、同じ頁数だけとじて、本物の表紙をつけて出来具合を見るのですね。この空白の方はその装幀見本として作ったもので、それをぼくが貰い受けたのですよ。わざわざ作らせたのじゃありません。不用になったのを貰っただけです。

 種あかしをすれば、なんでもないことだが、しかし、なにも印刷してない頁を、さも面白そうに読んでいるというのは、ちょっとしたジョークでしょうう。あのときは、あの席にいた、ほかの二人も驚いていましたからね。しかし、あの人たちは普通人種ですから、君ほどの好奇心を持たなかったようですがね」

 その晚、わたしたちは蒲団をならべて、午前二時ごろまで寝物語をした。それほど気が合ってしまったのである。一々は覚えていないが、ジョークに関連して、いろいろな話が出た。ジョークと滑稽文学、探偵小説、手品、詰将棋などの関係を、一つ一つ実例を持ち出して、際限もなく語り合った。

 伊東は落語の通でもあった。落語にもジョークがたくさんあるといって、「仇討屋」「嘘つき村」「噓つき弥次郎」「付き馬」「花見の仇討」「宿屋の仇討」「壺算」などの実例を挙げた。(わたしは「空気男」のことだから、固有名詞をこんなにそらで書けるわけがない。むろん、座右のその方面の本を、字引きのように参照しながら書いているものと御想像ください。前の滑稽小説家の名や作品や、伊東のしゃべった固有名詞なども、それぞれ本やノートを参照しているのです。「空気男」は文章一つ書くのにも、人にわからない苦労をするわけです)

 それは実に興味津々たる一夜であった。わたしはその夜、プラクティカル・ジョークの真の面白さに開眼し、自分も伊東のようなすぐれたジョーカーになりたいものだと発心したのである。


「田園の憂鬱」


 沼津に一泊して、翌日、伊東が用事をすませるのを待って、わたしたちは、つれだって東京に帰ったが、それからの二人は、まるで恋人のように、はげしく行き来をするあいだがらとなった。わたしは伊東の妙案と妙技に心酔していた。ジョーカーというものは、プランだけでなくて、演技が巧みでなくては、うまい効果は得られない。かれは変装術まで心得た名優であった。それに弁舌がまたおそろし く巧みだった。わたしは、かれのジョークやそれに関連した話を聞いていると、いつも時のたつのを忘れたものである。わたしは黒い服装のよく似合う、痩せ型の、メフィスト的好男子のかれに、超人シャーロック・ホ—ムズのおもかげを偶んでさえいた。

 伊東は美しい細君と女中の三人で、青山高樹町の小ぢんまりした、しかしなかなか高級な西洋館に住んでいた。おもむきのある古い木造洋館だった。室内の飾りつけも、伊東らしく、古風でメフィスト風にしゃれたものであった。そのころの流行で、客間にピアノが置いてあって、かれも美しい細君も巧みにそれを弾いた。わたしは音楽のことはなにも知らないので、批評はできないけれども、相当むつかしいクラシックも弾きこなせるようであった。

 伊東は職業というものを持たなかった。心やすくなってから、いったい何で食っているのだと聞いてみたことがあるが、「少し親譲りの財産があるのでね」と答えたばかりで、詳しいことは話さなかった。いわば、わたしと同じような遊び人であった。わたしなんかとは比べものにならないほど金持ちらしかったが、この遊び人という共通点が、二人の交友を急速度にこまやかにして行った。

 伊東の細君は美耶子という二十七歳の美しい人で、子供はなかった。わたしが伊東との交友に惹かれた一半の理由は、この美耶子の存在にあった。伊東家を訪問する主たる理由は、むろん、すぐれたジョーカーとしてのかれの話を聞くことにあったのだが、そのかれに、こういう美しい細君があるという点が、伊東家の魅力を倍加していたことは争えない。

 美耶子の美貌は、前に書いた汽車の中の幻の女と、どこか似通よったところがあった。いや、そっくりといってもよいほどだった。一重瞼の切れ長の美しい眼、眼と眼のあいだが人並みよりは広くて、恰好のいい鼻の頭が、やや上向きかげんで、上唇がひどく短くて可愛らしかった。肌は小麦色にスべスべしていた。

 美耶子の性格は、わたしには申し分のないものであった。利口で、人ざわりが柔らかで、そのくせ、はすっぱなところもあった。彼女の美貌にも、性格にも「謎」があった。わたしが惚れていたせいだろうと思う。惚れると、女はいつも「謎」になるものだ。

 そういうわけで、わたしは実にしばしば伊東家を訪問したものだが、伊東の方でも、ときどきわたしのみすぼらしいアパートを訪ねてくれた。わたしのアパートは六本木にあったので、お互に都電かバスにちょっとのれば往来できたわけである。

 ところで、初対面から一年ぐらいのあいだに、伊東の影響によって、わたしがだんだんプラクティカル・ジョークの面白さに深入りしていった次第を語らなければならないのだが、それには、屋内のものと屋外のものとに分けて書くのが、もっとも便宜なようにおもわれる。

「空気男」のわたしのことだから、一つ一つ正確な記憶があるわけではない。当時のノートを取り出して、時と所を一つにまとめる劇作の手法をとって、面白そうな実例だけを、読者にお伝えすることにしたいと思う。そこで先ず屋外の方の実例をまとめてみると、こんなふうになるのである。

 ある日、季節は春だったか秋だったか、ともかく、ひどく暑い日でも寒い日でもなかったと考えていただきたい。伊東とわたしとは肩をならべて、青山へんのある町を歩いていた。その日は二人とも洋服を着ていた。伊東は例の黒服ではなくて、柄物の背広を、わたしも、質は劣るけれども、同じような縞の背広を着ていた。

 両側にはいろいろな商店が雑然とならんでいた。大きな店、小さな店、洋風の店、和風の店が、でこぼこな高さで軒をならべていた。

 伊東はヒョコヒョコとかれ独特の気どった歩きかたで歩いていたが、ふと立ちどまって、片側の店屋を指さした。 「この金物屋にはいって、ちょっとジョークをやってみよう。別に説明はしないが、きみにもすぐ意味がわかるよ。調子をあわせてくれたまえ」

 そういって、かれはつかつかと、その金物店へはいって行った。

 店には二十歳前後の店員が、通路に立って、商品にはたきをかけていた。

「佐藤春夫の『田園の憂鬱』をください」

 伊東が途方もないことをいったので、店員は目を丸くしたが、やがてニヤニヤ笑って、

「本屋さんでしたら五軒先にあります。うちは金物屋ですよ」

 と答えた。しかし伊東は平然として、なおもつづける。

「いや、革表紙の方でも、クロース表紙の方でも、どちらでもいいんだよ」

「そんなことおっしゃったって、手前どもは本屋ではありません」

「いや、包み紙なんて、どうだっていい。ハトロン紙に包んでくれりゃいいんだ」

「もしもし、ここは本屋じゃありません。ごらんの通り金物屋なんです」

 店員は、伊東がつんぼとでも思ったらしく、かれの耳のそばへロをもってきて、大きな声でさけんだ。

「いや、それはわかっている。製本なんか多少狂っていてもさしつかえないよ。扉さえちゃんとついていて、落丁がなければね。ぼくはそういうことには余り神経質じゃない」

「もしもし、あなた。まちがいがおわかりになりませんか。ここは店がちがいますよ」

 店員は我慢できないというふうに、わめいた。

「いやいいんだよ。そんなに急がなくたっていいんだよ。ゆっくり探して包んでくれたまえ」

 店員は奥へかけこんで行った。そして主人を引っばってきた。

 五十年配の主人は、食事でもしていたのか、口をモグモグやりながら出てきたが、伊東の服装を見ると丁寧にたずねた。

「へい、なにがお入り用でございましょうか」

 すると、伊東はまた平然としていった。

「さっきから口を酸っばくしていっている通り、果物用の小さいフォークが半ダースほしいんだが、一番上等のがいい」

 主人は急いでその棚を物色して、小さな箱入りのフォークをもってきた。

「これではいかがでございましょう。手前どもでは最上の品でございますが」

 伊東は、ちょっとその箱の蓋をひらいてみた。

「うん、結構。これをもらうよ。いくらだね」

 そして、箱を包ませ、金を払って、口をポカンとあけて、あっけにとられている店員を尻目に、悠然とその店を出たのである。

 わたしは伊東について歩きながら、ドンデン返しのある探偵小説でも読んだあとのように、愉快でたまらなかった。伊東の演技にすっかり感心してしまった。


青写真


 わたしたちは、話をしながら、ブラブラと歩きつづけた。

「きみ、お寺の鐘が十三時を打って、近所の人を驚かせた話を知っているかい。昔の時の鐘じゃない。今の一時から十二時までをしらせる鐘だがね」

「知らない」

「これも外国の例だけれど、実にウィットがあるんだよ。その寺の近所のやつがね、鉄砲でね、本当の鐘が十二点打ったあとで、鐘を的にして、タイムを合わせて、ポーンと一発やるんだよ。そうすると十三点鐘になる。なんの利益もない。大した害もない。しかし、近所の人は不思議に思わあね。ただ人を驚かせてみたいジョークなんだよ」

 かれの話は、いつも、こんな風に、たのしいものばかりであった。

「ぼくはね、ここに建築設計図の青写真を持っている。きのう友だちのところで、不用なのを貰ってきたんだよ。それから巻尺を用意している。こいつを使って、一つジョークをやってみようか」

「へえ。どんなジョークなの?」

「まあ見ていたまえ。きみにもすぐ合点が行くよ。だが、さっきみたいにだんまりでなくて、もっと手伝ってくれなくちゃこまるね。きみも適当に口を利くんだな」

「だって、トリックがわからなけりゃあ、口の利きようがない」

「いや、すぐわかるよ。きみも、もう相当のジョーカーになっているんだから」

 町の片側に、赤と青のだんだらの飴ん棒が立っていて、一軒の床屋があった。客は仕事椅子に一杯だったが、待っている人はないように見えた。

「ここへはいるんだよ」

 伊東は例の気取った歩き方で、ツカツカとその店へはいって行った。わたしもそれにつづいた。

 伊東は青写真と巻尺を手にしながら、店主や職人をまったく無視してしゃべりはじめた。

「きみ、これをもって、むこうの壁につけてくれたまえ」

 と、言って、巻尺の一端をわたしにわたしたので、わたしはそれを引っぱって、向こうの壁まで歩いて行き、そのはじを壁にくっつけて、じっとしていた。

「ああ、ちゃんと青写真に合っている。そのまんなかへ、煉瓦で隔壁をつくるんだ。厚さは二十五センチと指定してある。ところで、煉瓦のトラックはまだこないのかな。一時という約束だが」と腕時計を見て「もう、その横丁のへんまで来ているかもしれない」

「ねえ、きみ、煉瓦を入れるのには、この表側の大ガラスをはずさなくちゃなるまいね」

 わたしも調子を合わせて、口をはさんだ。

 二人が人もなげに、大声でしゃべっているので、職人も客も、みなへんな顔をして、われわれを見ていたが、隅の方で客の顔をあたっていたこの店の主人らしいのが、髪剃りを手にしたまま、目を三角にして、こちらへやってきた。

 伊東はかまわずしゃベりつづける。

「この青写真で見ると、煉瓦壁のそちら側は、婦人用のトイレットになるんだね」

 床屋の主人はたまりかねて口を出した。

「あなた方、いったいなんです。ことわりもなしにはいってきて……」

「いや、ちょっと邪魔だから、どいていてください」

「なんだって? どいていろだって? わたしゃこの家の持ち主ですぜ。それを、いったい、あんた方、どうしようっていうんです」

「いや、ぼくはね、ただこの青写真を引き合わせているんだよ。この店を改築するんでね。それを測量しているんだよ」

「えっ、改築う? いったい、どう改築しようってんです」

「そりゃ、ぼくにはわからないよ。ぼくは会社に雇われている技師にすぎないからね。会社の出した青写真の通りにやるばかりだよ。で、きみ」と、わたしの方を向いて「手洗いをとりつけるのは、そのへんになるね。うん、もう少しこっちだ」

「おまえさんがたあ、いったい、だれに断わって、そんなことをやるんだね。あたしの承諾書でもあれば、見せてもらいたいもんだね」

「承諾書だとか、契約書のことは、ぼくは知りませんよ。ただ会社の命令で働いているんですからね……きみ」と、わたしに呼びかけて「横丁へ煉瓦のトラックが着いたかどうか見てこよう。ぼくたちも手伝ってやる方がいいからね。いずれにしても、この表側のガラスはとっぱらわなくちゃあ……」

 そういって、巻尺を巻きもどすと、わたしを促して、表に出た。

「少し薬が利きすぎたかもしれない。さあ、早く行こう」

 そして、わたしたち二人は、スタスタと、逃げるように 床屋の前をはなれたのである。


喧嘩バス


 しばらくのあいだ、だまって歩いていたが、ふと気がつくと、伊東がいたずらっ子のようにクスクス笑っていた。さっきのジョークを反芻しているのかと思ったが、そうではなかった。

「きみ、きょうは幸先がいいからね。こんどは一つ、二人で演技をやろうじゃないか」

 と、いい出した。

「どういう演技? またどっかの店へ飛びこむのかい」

「いやそうじゃない。こんどは、ちょっと大がかりなんだ。そして、どうしても二人でなければやれないジョークなんだ。それはね、バスの中でやるんだよ」

「こんども、ぼくはなにも知らないで、きみの助演をするのかい」

「そいつはむつかしいだろうな。こんどは、きみが主役だからね。ちょっと打ち合わせておかなくっちゃあ」

 そして、伊東はその計画を、詳しくわたしに話して聞かせたが、こんどのジョークは甚だ手あらいやつで、しかし、なかなか舞台効果があるように思われた。わたしにその主役をやれというのだが、そんなお芝居ができるかどうか、心もとなく思ったけれど、まあやってみることにした。

 そこで、二人は別かれ別かれ(sic!)になって、近くのバスの停留所へ歩いていった。そして、やってきた一台のバスに乗 りこんだ。

 バスの中はすいていたので、二人は斜めに向かい合って腰かけることができた。停留所ごとに、客が降りたり乗ったりしたが、三停留所ぐらいすぎると、ちょうど頃あいの混み方になってきた。

 時間が時間なので、半分は婦人客であった。男も老人が多かった。席は一杯になり、三、四人、あちこちに、吊り革をもって立っていた。

 頃はよしと思ったのか、伊東は、向かい合って腰かけているわたしの顔をじっと見つめはじめた。

 わたしは笑いそうになるのを我慢して、ギユッと唇をまげて、ふてぶてしい顔を作っていた。わたしは、ひどく怒りっぽい男に見せかけないと具合がわるいのだ。

 もう怒ってもいいころだと思ったので、わたしはやりはじめた。

「きみ、なぜそんなに、ぼくを見つめているのですか。ぼくの顔になにかついているのかね」

 すると、伊東はすかさず斬り返してきた。

「見つめてなんかいないよ。見つめるんだったら、もっとましな顔にすらあ」

 二人とも服装はちゃんとしているので、このよたもんみたいな口の利き方に、乗客たちは、びっくりしたようであった。車内全部の視線が、わたしたちに集まった。

「なんだとう。やい、もう一度言ってみろ」

 わたしは激怒した顔つきになって、席から立ちあがってぃた。

「なんどでもいってやる。おれは、そんなきたない顔、見つめた覚えはないよ」

「うぬっ!」

 わたしは、顔をまっ赤にして、というのは、実はこの衆人環視の中のお芝居に赤面していたのだが、よそ目こは、まっ赤になって怒っているように見えたことであろう。そして、いきなり、相手につかみかかって行った。

 伊東も負けてはいなかった。すぐに立ちあがって、応戦の姿勢をとった。

 とっくみあいがねじまった。近くの婦人客たちは、おそれをなして、車の前部と後部へ難を避けた。女車掌はポカンとして見ているばかりで、どうすることもできない。

 二人の男が、わたしたちのそばへかけよって、引き分けようとした。

「バスの中で喧嘩をはじめちゃあ、こまりますよ。近所迷惑だ。やるなら降りてからやってください」

 会社員風の分別顔をした男が、自分も怒った顔こなって、どなりつけた。

「よしっ、それじゃバスをとめてくれ……おいっ、きみっ、まさか逃げやしめえな。きみも降りるんだ。かたをつけよう」

わたしは伊東の手をひっぱって、バスの降り口の方へ歩いていった。

「このおれに、今のような口の利けるやつは、おさななじみのレンちゃんだけだよ。あいつなら、おれは怒りゃしない。レンちゃんには久しく会わないがね」

 わたしは、なるべく不自然に聞こえないように、このせりふを言った。ここが一番むつかしいところだった。

「ぼくも、子供のころレンちゃんと呼ばれていたよ。ぼくの名は伊東錬太郎だからね」

「えっ」と、わたしはびっくりして見せた。「君はレンちゃんだったのか。伊東錬太郎君だったのか。なあんだ、そんならそうと、早くいってくれればいいのに。ぼくは君を駅へ迎えに行ったんだぜ。わからないかね。ぼくは野間五郎だよ」

「おお、五郎だ。ゴロちゃんだっ。きみも変わったなあ。あれからもう十四、五年になるもんなあ」

 伊東君も、なつかしそうに叫んで、わたしに抱きついてきた。わたしたちは、あっけにとられた人々の前で、ロシア人のように、お互に抱き合って、接吻せんばかりであった。

 次の停留所で、わたしたちはバスを降りた。そして、人人の目を意識しながら、肩をくっつけ合い、腕を組んで、人通りの多い町を歩いて行った。

「どうだい。うまく行ったね。あのバスに乗っていた二十人ぐらいの男と女が、今の事件を生涯の語り草にするだろうよ。それにしても、きみも芝居がうまくなった。あの調子なら、これから二人で、いろんな趣向が立てられるぜ」

 伊東は、わたしの肩をポンと叩いて、今の演技力をほめてくれた。


重役と婦人会長


 次には、伊東の家とその付近でのジョーク実演について、やはり演劇の手法で、時と所を一つにまとめて、書いてみることにする。

 ある晚のこと、伊東から、自宅で小さいパーティをひらいて、面白いものを見せるという招待をうけた。わたしは少し早目に、まだ陽のあるうちから出かけていった。

 伊東は、わたしと知り合いになる前から、同好者を集めて、プラクティカル・ジョーカーのクラブみたいなものを作っていた。メンバーは伊東夫妻とわたしを加えて八人であった。しかし伊東とわたしのほかの会員は、みな職業を持っていて充分の余暇がなかったので、実際にジョークをやって歩くのは、主に伊東とわたしだけで、ほかの連中はわたしたちのジョーク実演の話を聞いたり、自分たちの妙 案を発表したりするだけで、いわば話し仲間にすぎなかった。

 伊東は、そのうちみんなで、「八笑人」のような大がかりなジョークをやってみようじゃないかといっていたが、それが実現しないうちに、あの事件が起こってしまった。

そして、このクラブも、ついうやむやのうちに、解散することになつた。

 伊東の家はバスをおりて五、六丁のところにあった。五、六丁のあいだは、大きな屋敷ばかりの淋しい町なのだが、その夕方はまるで人通りがなく、あたりはシーンと静まり返っていた。

 高いコンクリート塀にはさまれた町を、てくてく歩いて行くと、ふと、向こうに変なものが見えた。一人の中年の紳士が、妙な恰好でまごまごしているのだ。

 デップリ太った、重役タィプの立派な洋服紳士だったが、その紳士が、手に長くのばした巻尺をもって、なにかもじもじしながら、塀の角のほうへ、近づいて行くのである。

 紳士は外出用の服装で、籐のステッキを持ち、まだ新調したばかりらしいソフト帽をかぶっていた。その身なりで、巻尺をもって、ウロウロしているのは、実におかしいのである。

 コンクリート塀の角から少しはなれた地面に、赤と白のだんだら染めの測量棒が立ててある。巻尺はその外側をまわって、曲がり角の向こうへ折れている。そちらの端も誰かが持っているらしいのだが、巻尺はダランと垂れていて、そっちの端を持っている人も、そろそろと、こちらへ近づいてくるらしい。

 なんとなくおかしな様子なので、わたしは遠くに立ちどまって、それを見ていた。紳士はもうほとんど曲がり角まで達していたが、すると向こう側から、目のさめるような綺麗なものが現われてきた。

 それは四十歳前後の厚化粧の婦人であった。どこかの奥さんであろう。外出用の盛装をしている。派手な花模様のある訪問着に、帯も丸帯をデンと締めている。手には流行型の大きなハンドバッグ。その盛装婦人が、巻尺の一方の端をもって、なにか、怖わごわ、こちらをのぞく恰好で現われたのだから、いよいよ事態は異様である。

 紳士の方もおずおずと、塀の角からのぞく、婦人の方も、おっかなびっくりで、角からのぞく。そこで二人は顔を合わせたのだが、二人とも、なんともいえない、酸っぱいような、にがっぽいような、へんてこな表情を浮かべた。二人が知り合いでないことは、一見してわかる。

 ますます異様である。わたしは、これはいったい何事なのかと、好奇心を燃やしながら見つめていた。

 紳士の方が巻尺のケースを持っているのだが、巻き戻そうともしないので、目盛りをしたテープが道路にとぐろをまいている。そして、そのテープの両端を持った紳士と婦人とが、困惑したような顔を見合わせているのだ。

「わたしをいつまでも、こんなところに立たせておくなんて、けしからんじゃありませんか。今の男はいったい、どこへ行ったのです」

 紳士がまっ赤な顔をして、つめよっている。

「わたしこそ迷惑ですわ。あなた、どこの方かしりませんが、さっきの男はあなたの部下でしょう。いそぎの用事があるのに、こんなもの持たされて、もう十分も、じっと待っていたのです。あなたは、わたしを、おなぶりになっているのですか」

 気の強い奥さんとみえて、なかなか負けてはいないのである。怒っているので顔がくずれ、人並みの顔なのだろうが、ひどくみにくく見える。

「なにをいうんです。迷惑したのは、わたしの方ですよ。いったい、あなたはわたしになんの恨みがあるのです」

「あらっ、妙なことをおっしゃいますわね。見も知らぬあなたに、恨みなんかあるはずがないじゃありませんか。あなたこそ、わたしをからかっていらっしゃるのです。ほんとに、たちのわるいいたずらですわ」

 どなり合っているうちに、二人とも、変だと気がついたらしい。お互に加害者でなくて、被害者だということがわかったらしい。二人はしばらくのあいだ、だまりこんで、相手の顔を見つめあっていたが、紳士の方が先に口をきった。

「どうもお互に一杯やられたらしいな」

 婦人は泣き笑いのような表情になった。

「それじゃあ、さっきの男は、あなたも御存知ない人ですか」

「そうですよ。あなたにもきっと、わたしと同じようなことをいったのでしょう。これはひどい目にあった。あいつ、もう遠くへ逃げてしまったでしょうから、今さらさがしてもおっつきませんよ。お互にとんだ災難とあきらめるほかありませんな。アハハハハ」

「まあ、そうでしたの。ほんとうにひどい」

 そこで、二人はお互の立派な服装を認めあった模様である。

「あら、あたくし、つい腹がたったものですから、失礼なことを申しあげてしまつて、おわびいたしますわ」

「いや、それはお互ですよ。わたしはこういうものです。決してこんなバ力なまねをする人間じゃありませんよ」

 紳士は太鼓腹のチョッキのポケットから名刺入れを出して、指につばをつけて一枚引きぬいて婦人にさし出した。

「あら、申しおくれまして、あたくしも」

 婦人もふところから紙入れを出して、小型の名刺をさし出した。

 お互の名刺には何々会社専務取締役とか、何々婦人会会長とか印刷してあったのであろう。二人は名刺を読むと、相手を見直したように、やさしい眼を見交わして、アハハ、オホホと笑つた。

 それからは小声になったので、よく聞きとれなかったが、二人は長いあいだ立ち話をしていた。どうやら、共通の知り合いでもあって、その噂をして、一層親しみを感じているらしく見えた。

 やがて紳士は、まだ手にしていた巻尺の革のケースに気づくと、長くのびた測量テープを、グルグルと巻き戻して、それを、なにか戦利品ででもあるようにポケットにおさめ、婦人とむつまじそうに肩をならべて大通りの方へ歩いていった。


眼中の国旗


 そんなことで手間取ったので、わたしが伊東家についたときには、もう客が揃っていた。客は二人さしつかえがあって、主人側の伊東夫妻と、わたしのほかに三人であった。

 一々名前をあげると、かえって煩わしくなるから、名前は略するが、三人のうちの年長者は五十二歳の下町の料理屋の主人で、手品の名人であった。アマチュア・マジシアンズ・クラブにもはいっていて、一年に一度は、そのクラブの大会の舞台に立った。どこへ行くにも、かならず手品の種の三つや四つは身につけていて、機に応じてそれをやって見せた。トランプのカードも、種のあるのやないのや幾種類もポケットに入れていた。

 次の年長者は、はっきり年を知らなかったが、四十近い区役所の戸籍課長であった。この人は特技はなかったけれども、酒に強くて、犬の愛妻家であった。奥さんはそれにふさわしいきれいな人だった。ジョークの話が飯よりもすきで、地口がうまかった。何かというとだじゃれを飛ばした。

 三人目は伊東君と同い年の三十六歳で、京成大学の助教授だった。専門は社会学。碁と将棋が強くて、両方とも素人初段を貰っていた。

 欠席した二人は、大きな電機会社の課長と、二十歳の美術学校の学生であった。

 そして、これらのメンバーはすべて探偵小説の愛読者だった。ことに若い美術学生が<templatestyles src="Ruby/styles.css" />大通(だいつう)で、西洋の原本をたくさん読んでいて、われわれを煙に巻いた。

 伊東家は洋風の食堂だったので、みんなはそこの大テーブルを囲んで席につき、もう、オルドゥブルの皿が出ていて、洋酒がならんでいた。伊東は、こういうパーティのおりは、知り合いのコックを呼んで料理をさせるので、奥さんも女中もお給仕をするだけでよかった。むろん奥さんの席も取ってあって、美しい美耶子は大方はその席について、ホステスとして皆をもてなしていた。美耶子はジョー クの趣味を持っているかどうかわからなかったが、適当に調子を合わせていた。かしこくて美しくて、好男子の伊東とは似合いの夫婦だった。

 その席には、もう一人、わたしのまったく見知らぬ人物がいた。年のころは四十を少し越しているように見えた。まっ黒な濃い毛を綺麗になでつけていたが、それが余り黒黒としているのが目ざわりなくらいだった。顎から頸にかけて大きな傷痕のひっつりがあった。行儀よくテーブルの前に腰かけているのたが、なんとなくぎごちないところがあった。タバコも吸わなければ、酒も飲まなかった。ときどき水のコップを口へ持っていくのだが、その動作がなんだか器械で動いているように感じられた。食卓についても、左手だけに黄色い手袋をはめたままで、膝のあいだに手ずれではげた木のステッキを立てかけていた。

 手品狂の料理屋の主人は、スープが運ばれる前に、もう手品をはじめていた。誰も所望しないので、独りで楽しんでいる。吸っていたタバコを右手にとると、サッと空中に投げるまねをする。しかし、手からはなにも飛び出さない。火のついたタバコはどこかへ消えてしまったのだ。

 その手を空中にさし出して、なにかを摑むまねをした。そして、ヒョイと手をひらくと、ハートのクイーンの美しい力ードか現われる。かれはその力ードを持ちかえて、またもや空中高く投げ上げたが、すると、そのカードが食堂の白い漆喰の天井に、ピッタリと貼りついてしまう。

 なかなか見事な手品だが、誰も感動しなかった。というのは、このメンバーたちは、何度となく、その同じ手品を見せられていて、不感症になっていたからである。

 わたしは、手品よりも、わたしのすぐ前に腰かけている傷痕のある未知の男に惹きつけられていた。伊東が面白いものを見せるといったのは、ひょっとしたら、この男に関係があるのじゃないかと考えた。

 ところが、そうしてジロジロ見ているうちに、わたしは驚くべきことを発見した。その男の左の目の玉が、まるでミニアチュアの画のように、赤や青の綺麗な色彩を持っていたのである。わたしはギョッとして、首を前につき出して、その不思議な目玉を眺めた。

 よく見ると、それはアメリカの国旗であった。目の玉一杯に、あの星と線の国旗がひろがっているのだ。目の玉にカラー・フィルムのように、国旗を印画してあるのだろうか。そんな途方もないことがあり得るのだろうか。

 わたしが、びっくりして見つめているので、わたしの隣の人も、その向こうの人も、同じように、負傷男の眼を見つめた。そして、アメリカの国旗に気づいたようである。あの料理屋の主人も、手品をやめて、じっと男の眼を見ていた。

「みんな、気がついたようだね。それじゃあ簑浦さん、もっとちがうのを、見せてやってください」

 伊東が誇らしげにいうと、男は従順にその言葉に従って、ポケットから平べったい銀色のケースを取り出して蓋をあけた、プーンとアルコールの匂いがした。ケースの中にはアルコールを浸した綿がつまっていた。男は指でその綿の中を探して、何かを取り出した。それから、クルッとうしろを向いて、みんなに顔を見られないようにして、両手を眼のへんに持って行って、しばらくなにかやっていたかと思うと、再びこちらに向き直り、手に持っていた小さなものを、銀色のケースの綿の中にかくした。

 みんなが男の左の眼を見ると、今度はアメリカの国旗でなくて、日の丸の旗がひるがえっていた。ミニアチュアのまっ赤な日の丸が実にきれいだった。

 それから、男は何度となく、うしろを向いては、こちらに向き直った。そのたびに眼の中の画が変わるのだ。イギリスの国旗も出た。日本の国会議事堂も現われた。ヌード娘の全身像も出た。どこの人種かわからないが、実にうつくしい女の顔の大写しも出た。それがみな、八ミリのカラー・フィルムよりも少し大きく、クッキリ焼きついているのだから、その可愛らしい美しさは驚くほどであった。

「わかったかね。この人の左の眼は義眼なんだよ。この人がまた、なかなかの趣味家でね。義眼にあんないろいろな写真を焼きつけさせて、とっかえひっかえ、はめているんだ。はじめて見たときはギョッとするが、よくよく見ると、その美しさに惹きつけられてしまう。義眼のダンディだね。義眼でないわれわれにはできっこない、ちょっと羨ましい趣向じゃないか」

 この義眼のジョークには、さすがのジョーカー・クラブ員たちも、すっかり驚いてしまい、感嘆の言葉が次々と述ベられた。

 わたしは、これが今夜のパーテイの「面白いこと」なのかと、伊東の顔を見たが、むろん、「面白いこと」は、これだけではなさそうだった。伊東の顔のメフィストの薄笑いが、それを白状していた。

 それから食事をしながら、いつものジョーカー・クラブらしい雑談にはいったが、次々と運ばれる料理は、例によって申し分なかった。一同は臨時雇いのコックの腕前をほめたたえた。

 デザート・コースにはいると、わたしは、さっきそとで見た測量テープの事件を報告した。

「ぼくは結果だけを見たんだから、前にどういうことがあったかわからない。しかし、これはどうもジョーカーのしわざらしいね。それもよほどすぐれたやつだよ。ぼくの見たところでは、効果百パーセントだったからね。はじめはまっ赤になってどなり合い、それからお互に罪のないことがわかって和解し、そして、名刺を交換したところがふるっている。その結果お互に社会的地位を認めあい、仲よく手を組まんばかりにして立ちさって行った光景は、実に見ものだったよ。これを演出したやつは、よほどのジョー力ーにちがいない」

 わたしが話しおわると伊東君がテーブルに乗り出して、ニヤニヤ笑った。

「そうか、あれをきみが見たのか。きょう、うちへくる連中の誰かが見るかもしれないとは思っていたがね。きみは幸運だったわけだよ。実はあれをやったのはぼくなのさ」

「そうかもしれないと思っていた。結末だけ見たので、はじめの方がわからないが、きみはなにをやったんだね」

「探偵小説だよ。まず結論がある。そこから機知と論理で犯人の行動をさぐり出す。きみにだって、ぼくがどういうことをやったか、だいたいは想像がついているだろう?」

「うん、それは、つかないこともないが……」

「まあいい。時間を省くために、ぼくから話そう。ぼくは、なるべく人通りのない夕方を見すまして、あの大きな屋敷のコンクリート塀の角へ行った。そこへ赤と白に染めた測量棒を立て、両側の通りの角から二十メートルぐらいの地面に×印をつけてから、巻尺の革のケースを手にして待っていた。しばらくは適当な人が通らなかったが、やがてあの重役肥りの紳士かやってきた。むろん一面識もないんだ。服装がきちんとして、なかなか立派だったから、この人がいいと思った。

 ぼくは紳士のそばへ行って、『ちよっと』といった。『わたしは役所のもので、ここの道路工事の測量を命ぜられて、やりはじめたんですが、助手のやつがどっかへ行っちまいましてね。すぐ戻ってくると思いますから、ちよっとのあいだ、これをお持ちになっていただけないでしょうか』すると、紳士は、まさかいやともいえず『ああ、いいですとも』と答えたので、ぼくは、『この×印の中心にテープの端をあてていてください』とたのんで、巻尺のケースをわたし、ケースから调量テープブを引き出しながら、だんだん遠ざかっていって、角の測量棒の外側からテープを廻して、曲がり角のむこう側へ歩いていった。

 はじめの計画では、そのまま、テープの端を石を重しにして地面におさえておいて、うちへ帰ってしまうつもりだったが、そのとき、ちようどうまい具合に、むこうから、あの盛装の婦人がしずしずとやってきた。むろん知らない人だ。ぼくはとっさに思いついて、テープの端を引っぱりながら、婦人に近づいて行った。そして、さっきの紳士に言ったのと似たようなウソをついて、婦人にテープの端を握らせてしまった。この地面の×印の中心におしつけてくださいといってね。そして、ぼくはさっさと、うちへ帰ってしまったんだよ……紳士があの巻尺を戦利品として持って行ったそうだが、まあそれはジョークの楽しみへの投資として仕方がないね。

 ぼくは結果を見ないで帰ってしまったんだよ。いつもそうなんだ。その方が、かえって興味津々たるものがある。あれからどうなっただろうかと、種々様々の場面を想像することができるからね。しかし、今のきみの話によると、まあ成功だったな。巻尺を戦利品にして仲むつまじく立ちさるなどは、なかなかいい場面だよ」

 これでテープ・ジョークの話は一段らくついたが、このジョークについて、メンバーたちの、いろいろな批評が出た。そして、最後に、これは近来の秀作であるという結論に落ちついた。

「わしも見たかったなあ。その重役と婦人会長の出会いがねえ。まさに傑作だよ」手品狂の料理屋さんが、生唾を飲むようにして言った。「それにしても、われらの伊東会長は、手品のコツを心得ているなあ。このジョークなんか、まさに手品に属するものだよ」


ジョークと犯罪


 それから、しばらく雑談がつづいたあとで、伊東が、ちょっと形をあらためるようにして、なにか話しはじめた。

「これから少し講義をやるよ。いや、講義といっては失礼だが、ちょっと話したい感想があるんだ。それはね、ジョークと犯罪との関係についてだよ。今の測量テープのジョークだって、一種の軽犯罪といえばいえないこともない。訴訟されるほどの迷惑を与えないというだけのことだ。

 ところが、西洋のジョーカー伝を見ると、ひどいことをやっているやつがある。例えば、こんなのがある。ロンドンにでもニューヨークにでも、金持ちの住宅街というのがあるね。そこを歩いているんだ。そして、アトランダムに、表礼を見て、番地と姓名を書きとめる。なるベく女主人公の家がよろしい。そして、その名で、方々の有名な店に、とんでもない品物の注文状を出すんだ。すると、大きな機械だとか、トラックだとか、まったく家庭生活に関係のないようなものが、次々と配達される。むろん、そこの主人は受け取らないだろうけれど、主人が留守だったら、女中なんかは一応受け取るかもしれない。いずれにしても商人とのあいだに大悶着が起こるにちがいない。そこがジョーカーのねらいだけれども、これはもう犯罪といってもいいよ。

 もっと極端な例を考えてみると、エープリル・フールでだね、たとえば血圧の高い老人かなんかに電話をかけて、びっくりさせるようなことを話すとするね。それがもとで、血圧がひどく上がって、脳軟化症をおこして死ぬというようなことも、起こらないとはいえない。すると、これはもう殺人罪だからね。

 ジョークと犯罪とは紙一重のちがいだよ。探偵小説の元袓のポーが『純正科学の一種としての詐欺』という面白いエッセイを書いている。むろん、きみたちは読んだと思うが、あすこに書いてあるいろいろな詐欺とプラクティカル・ジョークとは、ちよっと区別がつかないほど以ている。ただ利欲の動機によるものかどうかによって、区別されるばかりだ。『利欲の伴わない詐欺をジョークという』と定義できるくらいだ。

 ところで、ここでぼくの話は探偵小説と結びついてくるんたが、ポー自身が探偵小説を創案し、同時に詐欺論を書いているように、この二つのものはジョークと密接な関係がある。探偵小説の中には少数ながら詐欺小説も書かれている。そして、その手法は、われわれのプラクティカル・ジョークと同じだといってもいい。その適例が一つある。

 ポーの詐欺論には十一種の詐欺の例が挙げてあるが、その八番目の例だ。これはプラクティカル・ジョーカーが、その通りのことをやっている。西洋でも日本でもだよ。きみたち忘れているかもしれないから、そのポーの第八例を簡単に話すと、こういうのだ。

 ある男がバーへはいって行ってタバコをくれという。そのころのあちらのバーではタバコも売っていたんだね。男はタバコの匂いを嗅いでいたが、このタバコはどうも気に入らないといって、タバコを返し、その代りにブランデーを注文して、飲んでしまう。そして、さっさと帰りかけるので、カウンターの男が呼びとめ、お代をまだいただきませんという。なんだって、タバコを返して、その代りにブランデーを貰ったんじゃないか。いや、しかし、そのタバコの代をいただいておりませんので。ばかいっちゃいけない。タバコはちゃんと返して、そこに置いてあるじゃないか。買いもしないものの代が払えるか。そんな問答でバーテンを煙に巻いて逃げ出すという話だがね。

 これと同じ手口がアメリカのジョーカーの逸話の本にも出ている。そのジョーカーの名前もわかっている。立派な社会人なんだ。日本にもあるんだよ。たしか大阪だねの落語に『壺算』というのがある。ある悪いやつが、壺屋へ行って、一<templatestyles src="Ruby/styles.css" />()入りの水壺(大阪では壺というが、東京なら水がめだね)を買って、代金を 一円五十銭なら一円五十銭払って、その壺をもって町内を一廻りして、元の店へ戻ってくる。この壺は小さすぎた。二荷入りのに換えてもらいたいといって、値段の倍の壺を持って帰ろうとする。番頭が呼びとめて、もしもし、その大きい壺は三円ですから、もう一円五十銭いただかないと困りますという。なにをいってるんだ。お前さん算盤にうといね。いいかね。さっき一円五十銭払ったね。お前さん受け取ったね。そこへ、この一円五十銭の壺を返すんだから、合わせて三円じゃないか。ちゃんと勘定が合ってるじゃないか。それからいろいろ押し問答があって、算盤まで持ち出して、やってみるが、どうしても一円五十銭の現金と、一円五十銭の壺を受けとった勘定になり、番頭は首をかしげながら、だまされてしまうという話だ。

 これの元は徳川時代の何かの本に出ているのだろうと思う。ぼくはまだ調べるひまがないが、『昼夜用心記』『世間用心記』の類かもしれない。しかし、そのもう一つ元は、おそらくシナだよ。シナには『杜騙新書』とか『騙術奇談』とか、いろいろ詐欺の話を集めた本が出ているからね。

 ところで、それじゃあ、われわれのクラブは詐欺の研究をして、それを実演しているのかということになる。いや、詐欺ばかりじゃない。さっきの例のように、ジョークは殺人にさえつながっているのだ。ここでまた探偵小説のことになるが、探偵小説の殺人トリックも、ブラクティカル・ジョークと同じ性質のものだよ。両方ともペテンにかけるのだからね。しかし、ぺテンといえども、決して軽蔑はできない。たくみなぺテンは、やっぱり一つの芸術あるいは科学といってもいいのだから。デ・クィンシィは芸術としての殺人を論じ、ポーは科学としての詐欺を論じている。

 或る日本の探偵作家が、随筆にこんなことを書いていたことがある。おれは年中、巧みな殺人手段ばかり考えている。それが好きだから探偵作家になったのだが、今に小説だけでは満足できなくなって、実際人殺しをするんじゃないかと怖くなることがある、とね。たしか『悪人志願』という題の随筆だった。多分精神分析のアンビヴァレンツと関係があると思うんだが、その作家は同じ随筆で、自分の一番親しい友だちと、仲よく話している最中に、ズブリと刺し殺す話を書いていた。それに興味を感じているらしく思われた。

 ぼくもときどき恐ろしくなってくることがある。ジョークに深入りして、今に犯罪の方へ移っていくのじゃないかという恐怖だね。ジョークは利欲に関係がないという申しわけがあるけれども、人殺しとなると、利欲にまったく関係ない人殺しもあるんだ。復警だって、優越感や劣等感の殺人だって、利欲じゃないからね。

 なんだか変な話になってしまったが、これがぼくの近頃の感想です。つまり、プラクティカル・ジョークと犯罪とは紙一重だということ、われわれは、いくらジョークの発明を競ってもいいが、その紙一重の境界線を越えてはならないということだね。

 たいへん長ばなしをしてしまって……みんな食事もすんだようだから、いよいよ、お約束の面白いものをお見せすることにしよう……美耶、いいかい。女中を近所へ使いに出しなさい」

 伊東は奥さんに目くばせをして、そんなことをいった。前々から打ち合わせがしてあったらしい。

「ことわっておくが、今の長ばなしと、これから見せる面白いものとはなんの関係もない。いや、ぺテンにかけるんじゃない。ほんとうのことだ。では、なぜあんな話を合の手に入れたかと不審に思われるかもしらんが、あれはいつか、なにかの機会に、話しておきたいと思っていたことなんだ。きみたちは、ぼくが今夜ああいう話をしたことを、覚えておいてもらいたいんだよ」

 なにか奥歯に物のはさまったような話し方であった。わたしはその真意をとらえかねた。しかし、ずっとあとになって、これが実はかれの遠い遠いおもんぱかり、かれの深謀遠慮の一つの伏線であったことを、思い当たるときがくるのである。


眼と歯


 それから、わたしたちは、書斎に導かれ、内外の書籍の壁に囲まれた広い部屋の、思い思いの安楽椅子に腰かけ、タバコをふかしながら、また雑談をつづけた。

 もう九時半であった。

 伊東が、大デスクの前の回転椅子をグルッと廻して、みんなに呼びかけた。

「今までわざとだまっていたが、これから、今夜のお客さんを紹介しよう。この義眼の人だ。簑浦さんといってね……」

 すると簑浦氏は、ギクシャクとした身のこなしで椅子から立ちあがり、みんなを見廻して、おじぎをしたが、別に何も言わなかった。今はもう、さっきの模様のあるのでなくて、普通の義眼をはめていた。

「簑浦さんと知り合ったのは、ごく近ごろのことだ。この人は元は軍人なんだが、たいへん不幸な半生を送ってこられた。そして探偵小説にうさはらしを求められた。したがって、プラクティカル・ジョークにも充分興味を持っておられる。きょうの『面白いこと』というのは、やはり簑浦さんに演じていただくのだが、それを快く承諾してくださったのも、われわれと同様に、ジョークというものを理解しておられるからだ。前説はまあこのくらいにしておくほうがよかろう。

 では、簑浦さん、どうか寝室にお引きとりください。あなたがやすまれるのには、いろいろ手助けがいるが、それは女中にやらせます。さっき打ちあわせたことをお忘れなく。これはなかなか演技の要るジョークですからね」

 そこで、簑浦氏は椅子から立って、

「では、みなさん、お先へ」

 と、挨拶して、はげた木のステッキを力に、機械のような妙な歩きかたで、部屋を出ていった。

「さて、諸君、われわれは、見物席につくのだ。二階の簑浦さんの寝室の隣の部屋に陣どるんだよ。ことわっておくが、演技のあいだ中、どんなへんなことがあっても、物を言っちゃいけない。咳をしてもいけない。死んだようにだまっているんだ。いいかね。さあ、足音を立てないようについてきたまえ」

 そして、われわれは、伊東夫妻に案内されて、一列になって、コッソリと二階へあがって行った。

 二階には二た部屋しかなかった。一つは伊東夫妻の広い寝室、もう一つは、その隣の客用の寝室である。

 われわれは夫妻のあとにつづいて、その広い方の寝室に、静かにすべりこんだ。二つの寝室のあいだには、ドアがあって、ふだんは鍵がかけてあるのだが、その晩は、そのドアがすっかりひらかれ、そこに目の荒いレースのカーテンが張ってあった。

 しかし、そういうことは、しばらくたってからわかったので、最初は、不思議な部屋の仕掛けに、ただ面くらうばかりであった。その広い方の寝室は電灯がわざと消してあって、われわれは、手さぐりで進まなければならなかった。

 四人のものは夫妻に手を引かれて、まっ暗な中を、今言うドアのそばまで、ソロリソロリと歩いて行った。そのとき、わたしは偶然、奥さんに手をひかれた。手が触れ合ったのは、それがはじめてだった。わたしは電気のようなものが、ツーンと、からだを走るのを感じた。やわらかい、スベスべした、冷たい手だった。暗やみの中で、美しい人と手を握りあっているというそのことだけで、わたしの胸はワクワクした。わたしは手先に力を入れる勇気など、とてもなかった。引かれるままに、おとなしくついて行った。

 簑浦氏の寝室との境のドアのすぐそばに、三脚の小椅子が、くっつけておいてあった。伊東夫妻とわたしとが、その椅子に肩をくっつけあって腰かけ、あとの三人は、その前のジュウタンの上に、やっぱり、からだをくっつけあって坐った。そこが見物席なのである。

 われわれの目の前には、目の荒いレースのカーテンが、床まで垂れていた。そのカーテン越しに、簑浦氏の寝室が手にとるように見える。こちらの部屋はまっ暗で、むこうの部屋には、あかあかと電灯がついているからだ。逆に、むこうの部屋からは、われわれをまったく見ることができない仕掛けである。

 われわれは唾をのみこむようにして、シーンと静まり返っていた。わたしは前に一度、こういう場面を経験したことがある。それは覗き趣味を満足させる会に出席したときだが、五人ほどの会員が、その和室の次の間に、コッソリと忍び入って、ちょうど夏のことで、<templatestyles src="Ruby/styles.css" />簾戸(すど)の隙間から、息をつめて、或る演技を覗いたのである。

 その連想が、わたしの好奇心を一層高める作用をした。わたしは、なにか変な気持になって行った。

 わたしを変な気持にしたのには、もう一つ別の理由があった。それは故意か偶然か、美耶子が伊東とわたしとのあいだに腰かけたことである。普通ならば、伊東の向こうに腰かけて、わたしとからだが触れ合わないようにするはずなのを、彼女はそうしなかったのである。

 わたしは、しばらくのあいだ、そのことばかり思い煩っていた。美耶子は、こういう場合に、誰の意志で動作するのだろうか。良人の暗黙の意志に従うのだろうか。それとも彼女の思うままにふるまうのだろうか。もし前者とすれば、あの考え深い伊東が、なぜこういう坐り方をさせたのか。もし後者とすれば、美耶子は、なぜわたしと隣合わせに坐ったのか。そのいずれにしても、わたしには、なにか理解できないようなものがあった。

 しかし、いつまでも、それを考えていることはできなかった。カーテンのむこう側では、もう「面白いこと」がはじまりかけていたからである。

 簑浦氏は、あかるい電灯の下で、ベッドのそばの椅子に端然と腰かけて、こちらを向いていた。簑浦氏のからだの機械仕掛けのような感じは、そうして腰かけていても、どこかに残っていた。その異様な感じが、わたしたちの好奇心を、いやがうえに搔きたてた。

 そこへ、シゲという女中がはいってきた。どこかへ使いに出されていたのが、ついさっき帰ってきたのである。この覗きの仕掛けは、伊東夫妻だけで拵え、女中にはなにも知らされていないように感じられた。

 シゲは二十歳前後の、頑丈なからだつきの田舎娘であった。無邪気な丸々としたあから顔に愛嬌があり、年よりも若く見えた。シゲは、まだ一と月ほど前に、この家へ来たばかりで、主人夫妻の性格も、その奇妙な趣味のことも、われわれのクラブについても、ほとんどなにも知らないようであった。

 シゲは簑浦氏の寝室にはいると、一礼して、もじもじしながら口をひらいた。

「あのう、奥さまから、お手伝いするようにと、いわれましたので……」

 すると、簑浦氏が、言葉少なにこたえた。

「ああ、手伝ってもらいたいのだよ。ぼくは不自由なからだでね……まず、そこの洗面台にあるコップに、水を半分ばかり入れて、もってきてくれたまえ」

 その寝室には、一方の隅に陶器の洗面台がとりつけてあって、コップが伏せてあった。シゲはそこへ行き、言われた通りコップに水を入れて、簑浦氏のところへ持って行った。

 簑浦氏はコップを受けとると、右手の指を左の眼にぐっとつっこんで、義眼をえぐり出し、それをコップの水の中に入れた。

 お椀のような形をした目玉が、天井を睨んで、コップの中に、気味わるくフワフワと浮かんでいるのが、こちらからも見えた。

 簑浦氏はそのコップを小卓の上に置くと、こんどは、やはり右手で、あのきれいに分けた濃い髪の毛をつかみ、グーッと頭の皮をめくりとってしまった。つまり、それはカツラだったのである。その下から、ピカピカ光るはげ頭が露出した。

 女中のシゲは、おったまげて、眼をまんまるにして、この不思議な光景を見つめていた。

「もう一つ、コップに水を……」

 簑浦氏は、カツラを、同じ小卓にのせながら、ニヤニヤッと笑って、言いつけた。

 幸い洗面台には、もう一つコップがふせてあったので、シゲはそれに水を半分ほど入れて持ってきた。

 簑浦氏はそのコップを義眼のコップのとなりへ置くように、右手でさしずしてから、その手を口の中へ入れて、二度に、総入れ歯を取り出し、コップの水の中へおとした。水の中で、上下の歯ならびが、いやな恰好で嚙み合わさっているのが見えた。

 総入れ歯を取り去った簑浦氏の口は、巾着のようにしぼんでしまい、おそろしく年取って見えた。入れ歯の支えが なくなったので、顔が押しつぶされたように、平べったくなった。

 それから、簑浦氏は立ち上がって、上衣とズボンをぬぎ、ワイシャツをぬぎ、シャツとズボン下だけになって、また椅子に腰かけたのだが、その脱衣のあいだに、短い幕間のような余裕があったので、わたしは自分の身辺に注意を向けることができた。

 わたしの一方の腿の外側が、美耶子の腿と密着しているために、汗ばむほど暖かくなっていた。これもわたしにははじめての経験だったが、そのとき、美耶子がわき見をした。くっつかんばかりになっている彼女の顔が、わたしの方を向いたのである。暖かい息がわたしの頰をなでた。その息にはなにか微妙な甘い薰りが感じられた。

 わたしと美耶子との会話を一度も書いていないので、読者にはわからないことだが、二人は相当うちとけたあいだがらになっていた。むろんみだらなことを話し合ったわけではない。伊東君の奥さんとしての敬意を忘れないで、しかし、遠慮のない口を利き合うほどに、親しくなっていたのだ。だから、彼女としては、わたしと密着して坐ったり、わたしの顔に息がかかるようなことを遠慮していないのかもしれない。だが、敏感な人だから、わたしのひそかな気持がわかっていないはずはない。それを知りながら、こういう無関心を装うのは、なにかそこに意味があるのではなかろうか。無意識のうちに、わたしを刺激しようとしているのではないだろうか。  彼女がわたしの方に顔を向けて、うっかり話をしようとして、声を立ててはいけないことを気づいて、やめたのかもしれない。じきに正面を向いてしまったので、こんどはわたしが彼女の方を向いて、その横顔を見た。

 レースのカーテンを通して、むこうの部屋の電灯が、ほのかに彼女の顔を照らしていた。その淡い光で見る彼女は、ハッとするほど神秘的で、神か悪魔のように美しかった。私はばかのように、その横顔に見とれていた。


贋造人間


 そのとき、むこうの舞台では、シャツばかりになった簑浦氏が、女中のシゲをそばへ招きよせて、あの巾着みたい な口で、スースーと息の漏れる不明瞭な言葉で、なにか言っていた。

「ぼくの左手をグッと引っぱってくれ。この左手は義手だから抜けるんだよ」

 シゲは義手というものを見るのは、はじめてらしかった。少し青くなって、もじもじと、ためらっていた。

「もとの方ははずしてあるんだから、引っぱれば抜けるんだよ。グッと、おもいきり引っぱってくれ」

 シゲはおずおずと、黄色い長い手袋のはまっている義手に両手をかけた。そして、力をこめて引っぱった。すると、木と革でできた義手が、シャツの腕の中から、スルスルと抜け出してきた。肩のつけ根の辺からの長い義手であった。

 簑浦氏は、それを右手で受けとって、ベッドの上に、ヒョイとほうり出した。そして、腰かけたまま、右足をまっすぐに上げた。

「こんどはこの足だよ。ズボン下がダブダブだから、ぬがなくても、だいじょうぶ抜けるよ。さあ、引っぱっておくれ」

 シゲの顔は、さっきよりも、もっと青ざめていた。眼をまんまるにして、驚いている表情がおかしかった。

 ズボン下の中から抜け出してきた右足の義足は、おそろしく太くて長かった。簑浦氏の右足は太腿の中ほどから切断されたものらしい。

 シゲは、おっかなびっくりで、その義足を両手にささげて、ベッドの上に置いた。

 たが、簑浦氏の不思議な解体作業は、まだそれで終ったわけではなかった。こんどは左足を前に出したのである。

 シゲは余りの恐ろしさに、もう逃げ腰になっていた。ここから見ても、青ざめた額にベットリ汗をかいているのが、よくわかった。

「さあ、こんどは、こっちの足だ。同じようにやってくれ」

 シゲは最後の力をふりしぼるようにして、これに耐えた。左の義足は膝の下からのもので、右足ほど長くはなか った。シゲはそれを大事そうに、ベッドの上にならべた。  椅子の上にチョコンと坐っている簑浦氏の恰好は、実に変てこなものであった。シャツの左手と、ズボン下の両足が、ペチャンコになって、ダランと垂れ、おそろしく寸づまりのからだになっていた。ハゲ頭で、片眼で、口は巾着になり、からだは、昔の見世物にあったトクリゴのように、胴体だけになり、満足なのは右手一本である。なんというひどい戦傷を受けたものであろう。この人の肢体は大部分が人工であり、贋造であった。つまり贋造人間という感じなのだ。

 シゲを笑うことはできない。わたしも怖くなってきた。その寸づまりの胴体を見ていると、吐き気を催した。気の毒だが、今の簑浦氏は、なんともいえない醜悪な肉のかたまりにすぎなかった。

 その醜悪な肉塊が、巾着の口でまだ物を言っていた。

「もう一つだけだよ。これでおしまいだ。きみ、ぼくの頭に両手をかけるんだよ。そして、ぼくの首を力いっぱい引き抜くんだ」

 肉塊はそういって、歯のない口で、ニヤニヤと笑い、大きな傷痕のある頸を、ヌーッと前につき出した。

 シゲはよろよろとよろめいて、入口のドアのほうへ逃げようとした。しかし、足が言うことをきかないらしく、酔っぱらいのような足どりで、両手をもがきながら、やっとの思いでドアのところまで行った。そして、なにか恐ろしい叫び声を立てたかと思うと、グニャグニャと、そこへ倒れてしまった。気を失ったのである。

 それから、しばらくして、わたしたちは階下の書斎へ戻っていた。

 シゲは、あのときすぐ、みんなで介抱して、女中部屋にねかせた。

「人間の首が抜けてたまるものか。義首なんてありゃしないよ。あれはちょっとした冗談なのさ。きみも、あんなことを真にうけるなんて、ばかだなあ」

 伊東がそういって慰めたので、シゲもいくらか気がおちついたらしく、美耶子の与えた睡眠薬で、グッスリ眠ってしまつた。

 それがすんで、みんなが書斎の安楽椅子にかけると、伊東が口を切った。

「今の手は西洋笑話にある話だよ。一度実験してみたいと思っていたが、幸い簑浦君という、絶好の人が見つかったので、きみたちをご招待したんだ。簑浦君はなかなかの名演技だった。ぼくはあんなにうまく行くとは思っていなかったんだよ。それに、女中のシゲが、あれは山出しの娘で、うってつけの助演者だった。シゲにはちょっと可哀相だったが、あとで、それだけのことはしてやるつもりだ。この筋書を知っていたのは、ぼくと美耶子と簑浦君だけだから、きみたちにも面白い見ものだったと思うが、感想はどうだね」

「傑作だね。わしでさえ怖かったよ。あのヌーッと首をつき出されたときにはね。女中さんが気を失ったのも無理はないよ」

 年長の料理屋の主人が、まず讚辞をのべた。

「ぼくもあの西洋笑話は読んだことがある。たしかドイツ種だったね。だから、中途で落ちがわかったけれど、読むのと実演とでは感じがちがうからね。ぼくもハラハラしたよ。怖かったよ。それにしても、よくああいう適当な主演者を見つけたもんだなあ。やっぱり半分以上は伊東会長のお手柄だよ」

 京成大学の助教授が感に耐えたようにいった。

「だが、気味が悪いねえ。四本の手足のうち、満足なのは一本だけなんだからねえ。おそろしい負傷だ。よく生きていられたもんだね。あの胴体ばかりの肉のかたまりを見ていると、ゾッとして、吐き気がしたよ」

 区役所の戸籍課長が、まだ青ざめた顔で、二階の簑浦氏に聞こえることを憚ったのか、内証話のように声を低くした。だが、簑浦氏はあのまま、みんなで抱き上げて寝室のベッドに入れておいたのだから、聞こえる心配は少しもなかった。

 わたしも、そのあとについて感想をのべたが、見廻してみると、主人公夫妻をはじめ、みんなが、多少とも青ざめた顔をしていた。戸籍課長の顔色が一番わるかった。美耶子は思ったより平気な顔をしていた。

 結局、この演出は近来の最傑作という結論になった。もう十一時を過ぎていたので、その結論が出たのをしおに、わたしたちは急いで辞去することにした。


犯人あかし


 まあこんなふうな調子だったのである。しかし、伊東と知り合ってからの一年間には、まだいろいろなことがあった。ジョーカー・クラブの催しでは、降霊術の実験や、英米伝来のマーダー・パーティ(殺人ごっこ)をやったことなど、記憶に鮮かである。

 伊東とわたしの友情は、加速度に深くなり、子供時代からの親友のようなあいだがらになっていた。伊東は、わたしのアパートの狭い部屋へも、よく遊びにきて、四置半の畳の上に、長々と寝そべって、無駄話をしたものだ。

 わたしの方からも、毎日のように、伊東家を訪問した。白状すると、これは伊東の魅力のほかに、奥さんの美耶子の魅力に引きつけられていたからであった。

 わたしは一日に一度は美耶子の顔を見、声を聞かないと、その夜の寝つきがわるいほどになっていた。生れてから、これほど女性に惹かれた経験は一度もなかった。

 そんなに、しばしば訪問していると、ときには変な場面に出くわすことがあった。伊東たちは結婚してから五年もたっていたので、夫婦喧嘩をすることもないではなかった。かれらは今でも愛し合っていたが、愛することと夫婦喧嘩は別物である。

 なにが原因なのか知らないが、わたしがはいって行くと、二人はふくれっ面をして向かいあっていた。かれらは、わたしの前では、夫婦喧嘩を隠そうともしなかった。

「君のその強情な性格には、うんざりするよ。なぜ簡単にあやまってしまえないんだ。あやまってくれないと、おれは気がすまないのだ」

 伊東が、額に癇癪筋を立てて怒っていた。奥底のしれないような、いつもお芝居をやっているような、世渡りに冷静なかれにも、夫婦喧嘩ともなれば、こういうあからさまな一面があるのかと、おどろくほどであった。

 美耶子は強情にだまりこんでいた。どうでもなれという捨てばちな態度に見えた。

「返事ができないのか」

 最後通牒のようないい方であった。美耶子はまだだまっていた。

「おい、こんな調子じゃ、おれはもう堪えられないかもしれんぞ。君とはいっしょにやって行けないかもしれんぞ」

 それをきくと、美耶子が、やっと口を利いた。

「いいわ。わたしだって覚悟してるわ」

「そうか。覚悟しているのか。じゃあ、そうしようか」

 伊東が爆発するように、いいはなった。わたしはもうだまっていられなくなった。

「おい、おい、いいかげんにしないか。おれが来ても、見向きもしないで、夫婦喧嘩してやがる。そんな礼儀ってな いだろう」

 すると、伊東が、おそろしい眼で、わたしを睨みつけた。

「空気男はだまってろ。お前には関係のないことだ」

「関係ないことあるもんか。おれは君たちの友だちじゃないか。それに、折角訪ねてきたおれの前で、目ざわりじゃないか」

「目ざわりなら、君の方で帰ったらいいだろう」

「なんだとう。よしっ、帰る。だが、ただは帰らないぞ。おれは奥さんを連れて帰る。美耶子さん、さあ行こう。あんなやつに捨てられたって平気だよ。ぼくが保護する。ぼくがなぐさめてあげる」

 そして、わたしは美耶子の手をとって、立ちあがったものだ。それを、本気とも冗談ともつかぬ態度でやってのけた。すると、効果はてきめんだった。

 伊東は、へんな顔をして、しばらくだまりこんでいたが、突然、笑い出した。 「アハハハハハ……空気男もなかなかやるねえ。よしっ、きょうは、これで打ち切りにしよう。一応仲直りだ。野間に君を連れてかれちゃ困るからな。ハハハハ……」

 わたしは、この伊東の急転換にはあきれたが、美耶子は、やっとこれで、気がおちついたように見えた。かれらの愛情は決してまださめてはいないのだ。

「いったい、なぜ、あんな喧嘩をはじめたんだ。めったにないことじゃないか」

 わたしがたずねると、伊東はニヤニヤッと、いつものシニカルな微笑をした。

「いや、もとはなんでもないことさ。だが、この子の態度が癪にさわったんだ」

 伊東はときどき、細君のことを「この子」という愛称で呼ぶことがあった。「おれをばかと言ったからね。おバカさんじゃなくて、本当に怒ってばかっと、どなりつけたんだ。それから、日ごろのことが、洗いざらい持ち出されて、あの始末さ。いくら仲のいい夫婦でも、日ごろの鬱憤というものは、双方にどっさりたまってるもんだからね。こういう争いは、別かれ話まで行かないと収まらない。むろん、お互に本心じゃないがね」

「それで、ささいな原因って、なんなの?」

「探偵小説だよ。ハハハハ……」

「え、探偵小説?」

「西洋の長篇探偵小説さ。君も知ってるように、ぼくのうちでは翻訳探偵小説の叢書は全部とっている。それを、この子もぼくも読むんだよ。ところで、ぼくはジョーカーのことだから、ちよっとしたいたずらをやったんだ。どれもこれも、美耶子より先に、ぼくの方が読んじゃってね。その本の第一頁に、この小説の真犯人は誰々なりって、大きな字で書きこんでおくのさ。

 このいたずらは、西洋のジョーカーが、とっくに先鞭をつけている。ぼくはそれを、ちよっとまねてみたんだがね。やっこさん、やっぱりカンカンに怒ったね。西洋の例では、そのために離婚訴訟まで起こしているんだよ。どの本もどの本も、第一頁に種あかしがしてあってみたまえ。深偵小説好きなら離婚したくなるほど怒るのも無理はないよ。

 だから、この子も、おれをばかッって、どなりつけたんだ。そして、離婚話の近くまで行ったんだからね。探偵小説の恨みはこわいよ」

 それから雑談になって、相も変わらずプラクティカル・ジョークの話に耽って、夜ふかしをして帰ったのだが、この夫婦喧嘩は、わたしたちのあいだに、なにか変なあと味をのこした。伊東もわたしも、その微妙な点については、その晚はもちろんその後にも、まったく触れようとしなかったけれども、お互の心の奥に、異様なものが残っていることは争えなかった。

 わたしは伊東とちがって、思ったことが、すぐ色にあらわれる方だし、空気男のことだから、物忘れのために、一貫したウソがつけない。言ったりしたりすることの矛盾から、すぐ化けの皮がはがれてしまう。

 わたしは、その晚、冗談めかしてではあったが、美耶子への愛情をさらけ出してしまった。これはむろん、かれら二人に印象を与えている。今さら取り返しはつかない。いや、そうでなくても、わたしの日ごろの挙動で、二人とも、早くからそれに気づいていたかもしれない。

 ところが、二人とも少しもそのことを気にかけていないように見えた。つまり問題にしないのである。それにはわけがあった。わたしがわれながら愛想のつきるぶおとこだったからである。これを白状するのは、愉しいことではないので、つい今まで書きそびれたが、実はそうなのである。

 わたしは下駄のように四角な顔をしていた。顎の骨がいやに出張っている。顎骨の発達した人間は、意志が強いといわれるが、わたしは一向そうではなかった。むしろ優柔不断のほうであった。それに気が弱くて、なまけものという、ダメな人間の見本みたいな男だった。人一倍好奇心が強いのも、弱点の一つにちがいなかった。

 眉はクッキリしないボウボウ眉毛で、眼は細い一かわ眼、鼻は普通だったが、口が大きくて唇が厚かった。それに、背がずんぐりむっくりときている。いつも両親を恨んでいるような哀れな青年であった。

 そんなふうだから、わたしは人並みの恋愛はあきらめていたのだが、今度はちょっと様子がちがった。美耶子は必らずしもわたしを嫌っていないような気がする。伊東は、わたしの男性としての存在など無視していたが、美耶子の方は、無関心のうちにも、どこかに好意が感じられた。それは異性としてではなく、ひとりの人のいい人間として、好意を持ってくれたのかもしれない。しかし、そういう好意と、異性としての好意とは、紙一重ではあるまいか。わたしは、悲しくも、それを空頼みにしていなかったとはいえないのである。

 美耶子がわたしに気を許している一例は、いつか義手義足の男のジョークを、くら闇の室から見物した折りの彼女の挙動からも、推察することができたが、そのほかにも、似たような場合が幾度もあった。

 例をあげると、あるとき、伊東のうちへ、ジョー力ー・クラブの連中が集まって、心霊術(伊東はこれを神秘的プラクティカル・ジョークだといっていた)のまねをして遊んだことがある。そのときにも、わたしにはむしろ意外な、妙なことが起こったのだ。


降霊術


 そのとき行なわれたのは、いわゆる降霊術なのだが、そのやり方は、広い部屋の隅に、箱のような区切りをして、黒い幕をさげて囲み、その中で霊媒が椅子にかける。見物の中の二人ぐらいが、そこへ行って、霊媒の手と足を椅子に括りつけて、動けないようにする。そして、黒いカーテンをさげてしまうので、霊媒は見物からは見えないようになる。

 そこで、電灯を消して、部屋をまっ暗にする。同時に、助手がレコードを廻して音楽を聞かせる。見物たちは、部屋の一方に一列にかたまっておしだまっている。

 その夜、霊媒の役は伊東が勤めた。レコード音楽は、幽かな物音を消すためのもので、そのあいだに、霊媒は、黒の幕の中で繩抜けをやる。奇術の手を用いれば、どんなに括られていても、簡単に抜けることができる。先ず両手を抜いて、その自由になった手で、足の繩を解き、黒幕のそとへ出て、いろいろな不思議を現わしてみせるのだ。

 靈媒がとじこめられていると信じられている黒幕と、見物とのあいだに、机が置かれ、その上に人形やラッパや長い紙製のメガホンなどがならべてある。机にも、人形のからだにも、ラッパにも、メガホンにも、みな夜光塗料が塗ってあって、まっ暗な中でも、その形がハッキリとわかっている。

 その夜光人形がレコードに合わせて踊り出す。ラッパが空中に持ちあげられて、ひとりで鳴り出す。長いメガホンが、サーッと見物の頭をこして、うしろの方までのびる。そして、最後には、机そのものが、スーッと宙に浮いて、天上へあがっていく。生命のない物体が、ひとりで動くのだから、非常な不思議である。

 これらは、すべて繩抜けをした霊媒が、手で動かしているのだが、霊媒の姿はまったく見えない。その部屋は窓には厚い黒幕を張り、どんな幽かな光もはいってこないようにしてあるので、電灯を消すと、真の闇になる。

 そのとき、わたしは見物の中にまじっていたのだが、からだをくっつけて腰かけている隣の人の(それは、また偶然にも美耶子であった)白い顔が、いくら眼が闇に慣れても、まったく見えない、どんなに幽かにも見えないのに驚いたものである。真の闇には、人間の眼が慣れるということはないものである。

 最後に、見物が腰かけている頭を越して、二メートルもうしろの壁ぎわに、妙なものが現われた。まっ青な人間の顔である。長い髪の毛が額に垂れているところをみると、どうやら女らしいのだが、全体にボーッと青く光った、実に気味の悪い顔なのだ。

 それが天井の近くにあらわれたかと思うと、パッと消えてこんどは床すれすれに漂うというふうに、いたるところの空中に、現われたり消えたりする。この演技ははじめてだった。部屋を横切って、見物たちがー列にならんでいるので、霊媒は見物のうしろへは出られないはずだ。助手でもいなければ、こんなことはできないのだが、その助手がいないことは、われわれによくわかっていた。

 その晚の降霊術では、そのほかに死人の声が聞こえたり、未来の予言が闇の中から響いてきたり、その他さまざまの奇蹟が行なわれたのだが、くだくだしくなるので、ここではすべて省くことにする。

 さて心霊術が終って、部屋があかるくなると、まっ先に口を聞いたのは、例の手品狂の料理屋の主人であった。 「見事でした。しかし、わしにはどうもわからんことがある。わしは降霊術のトリックはみんな知っているつもりだが、そのわしにもわからない手が一つあった。あの終りこわれわれのうしろにあらわれた女の顔ですよ。あれは新手だね。どうしてもわからない。

 霊媒は繩抜けをしても、見物席の椅子の列が、部屋を二分しているので、気づかれないように見物のうしろへ廻ることはできない。廊下へ出てうしろに廻るようなドアもない。それなのに、あの女の顔は、見物の二メートルもうしろにあらわれた。棒の先に人形の首をくっつけて伸ばすにしても、そんな棒はどこにもない。また、天井から紐でつりさげたあとなんかも、まったくない。あれは、いったい、どんな手を用いたんだね」

 不審に堪えないという顔であった。

「ハハハハ……わからなかったかい。ぼくの創案した新手だよ。プラクティカル・ジョーカーには、奇術発明家の素質も必要なのだ。あれはね、レイジー・タングズだよ。直訳すると『不精なヤットコ』だ。ホラ、これだよ。近ごろは見かけないが、昔は子供のおもちゃによくあったじゃないか」

 伊東はその品を、ダブダブの上衣の下から取りだして、サッと伸ばして見せた。二メートルあまりも向こうへのびた。その先に紙をかためて作った無気味なお面がくっついていた。首のところに豆電球が仕掛けてあって、手元のボタンを押すと、それがまっ青な女の顔を、ほのかに照らすようになっている。

 レイジー・タングズというのは、軽い金属で作った×××××××型のもので、畳めば手の中にはいるが、伸ばすと、ビックリ箱のように、一瞬に二メートルも向こうまで届くのだ。伊東は、背伸びをして、見物の頭の上を越して、それをのばし、豆電灯を点滅させたのにすぎない。

 この実験のくら闇の中で、故意か偶然か、わたしはまたしても美耶子と隣あって、からだをくっつけて腰かけたのである。

 美耶子の顔はまったく見えなかった。しかし、その呼吸が聞こえた。ときどき、わたしの頰に暖かい息がかかるので、彼女がすぐそばで、こちらを向いているのだとわかった。からだはピッタリとくっついていた。密着している部分が、だんだん暖かくなり、しまいには火のように熱くなって汗ばんできた。彼女が身動きするたびに、一つ一つの筋肉の動きがハッキリわかった。そして、わたしを意識し、わたしに好意を持つ動き方のように感じられた。敏感な彼女が、そういう動きによって、わたしが何を感じるかが、わからないはずはないと思った。

 わたしの愛情はそんなふうにして、月日とともに育てられて行った。わたしはだんだん自信を持つようになった。


殺人ごっこ(一)


 別のときには、またこんなこともあった。

 その晩は、ジョー力ー・クラブの連中が集まって、マーダー.パーテイ(殺人ごっこ)の遊びをやった。この遊びは日本では余り聞かないが、アメリカやイギリスで流行しているらしい。夜、パーティで酒を飲んだあとで行なわれる。

 その夜のパーティは欠席者が一人あったので、美耶子を加えて七人だった。先ず探偵役がきめられる。伊東が自分が探偵になると主張して、それが容れられた。次に犯人役をきめなければならない。それには英米伝来の作法があった。その部屋のマントルピースの上には、短刀、ピストル、たばねた紐、毒薬の瓶などいろいろの兇器がならべられ、その横に呼子の笛が一つ置いてある。その前に探偵役をのぞいた六人が一列に立ちならぶ。女中のシゲが、予め教えられた通り、六枚のトランブのカードを持ってやってきて、裏返しにしたまま、一人々々にそれを引かせる。

 カードの中には必らずスペードのエースが混っていなくてはならない。その札を引いたものが犯人になる規則である。引いたものは、それを隠してしまう。人に悟らせてはいけない。誰が犯人になったか、本人以外には知らないのである。

 それから、六人はお互に少し離れて、一列になって、壁の方を向く。シゲがスイッチを押して電灯を消し、部屋はまっ暗になる。

 このパーテイでは、犯人役は単独犯行をやってもいいし、一人だけ共犯者を作ってもいいという規則になっていた。犯人はそっと列を離れて、もし共犯者のほしい場合は、その人のそばへ行って、くら闇の中で、手を握ことになっていた。それから、マントルピースの上のどれかの兇器と呼子の笛をとって、ポケットに隠す。そして、列中に戻って、何くわぬ顔をして立っている。そこで、シゲが電灯をつける。

 人々はすぐにマントルピースの上を見る。紐と呼子の笛がなくなっている。兇器は紐ときまった。誰かがそれで絞められるのだ。人々はお互に顔を見合わせる。だれが犯人に当たったか、もし共犯者があれば、手を握られたのは誰かと、さぐり合うのだが、みんなポーカー.フェイスをしていてわからない。

 その晚、手を握られたのはわたしであった。わたしが共犯者に指名されたのだ。普通は主犯を(sic!)誰だかはわからないはずだから、共犯者が主犯を探すことも、このゲームの興味の一つにかぞえられている。

 しかし、わたしにはわかっていた。わたしの手を握ったのは、指が細くてやわらかい女の手だったからだ。このパーティには女性は美耶子のほかにはいなかった。犯人役は美耶子にちがいない。細君が犯人、わたしが共犯者、そして亭主が探偵という、妙なめぐり合わせになったのである。

 それから、探偵役を含めた七人の全員が、みんなバラバラに離れることになっていた。

 同じ部屋に二人いてはいけない。部屋が足りなければ、台所にいてもいいし、庭を散歩してもいいという申し合わせであった。それは主犯者に共犯者と相談し合う機会を与えるのと、二人が被害者をきめて犯行にはいるのを妨げないためであった。

 人々は応接間、書斎、食堂、台所、二階の寝室などに分散して、ドアをしめきって、何かの起こるのを待ち構えた。わたしは独りで暗い庭を歩いていた。空気男にも似合わない臆病ものなのだが、今夜の主犯は美耶子とわかっているので、暗い庭で待っている方がおもむきがあると思ったのだ。

 足音もなく、樹のあいだから黒い影がより添ってきた。美耶子であった。

「手品きちがいの酒巻さんにきめたわ、被害者は。あなたと二人で、この紐で、あいつを締め殺すのよ」

 あの太っちょの料理屋の主人は酒巻という姓であった。くら闇の中で、美耶子がボソボソささやく声をきくと、わたしは怖くなった。美耶子が奥底の知れない悪女に見えた。窓からのうす明かりで見る彼女の顔は、いつもとまるでちがっていた。彼女は時によって見ちがえるほど容貌のかわる女だった。そして、それのどれにも別様の魅力があった。美人とはそういうものだと、誰かから聞いたことがあるが、それにちがいないと思った。今の悪女の相にも、ハッとするような美しさがあった。この女と二人で、人殺しをするのかと思うと、わたしはゾクゾクするような昂奮を覚えた。

「あのおやじ、どの部屋にいるんだい?」

「ちゃんとさぐってあるのよ。食堂に一人ぼっちでいるわ」

 美耶子はわたしの手をとって、先にたった。

 庭はまばらな木立ちになっていたので、わたしたちは、木のあいだをくぐるようにして、台所口の方へ歩いていったのだが、そのとき、わたしの眼に、ふと変なものがうつった。今、通りかかっている書斎の窓が動いたのである。いや、窓が動くはずはない。ガラス窓の内側にさがっているカーテンの合わせ目が、ゆれ動いたのだ。書斎には電灯がついていなかった。誰かが、わざと電灯を消して、そこに一人でいたのだ。その男が、カーテンの合わせ目をひらいて、ソッとこちらをのぞいていたのが、わたしたちが近づいたので、あわてて隠れたという感じであった。

 誰だろう。ひょっとしたら、探偵役の伊東かもしれない。とっさに、そんな考えがひらめいた。あいつはやきもちをやいて、わたしたち二人の行動を、隙見していたのかもしれない。これから犯そうとしている仮想殺人と、美耶子と手を握り合っている罪の意識とが、二重になって、わたしを変な気持にした。ほんとうの犯人なら、こうもあろうかというような恐怖が、わたしの横隔膜を突き上げてく るのを感じた。

 美耶子はなにも気づかなかった様子なので、わたしはだまっていた。

 二人は忍び足で、台所口から上がり、廊下を食堂の入口まで歩いて行った。廊下にも、食堂にも、そのほかの部屋部屋にも、電灯がついていたが、ヒッソリと物音一つしないので、まるで空き家の中を歩いているような気がした。

 美耶子が食堂のドアを、幽かにコツコツコツと三度ノックした。

 わたしは、中に腰かけている太っちょの料理屋の主人の気持を想像した。

 各部屋に待っている人々は、誰が被害者に選ばれるかと、ビクビクしているにちがいない。そのスリルのための遊戯なのだが、やはり本物の殺人犯に狙われているような恐怖を味わっていたにちがいない。太っちょの酒巻もその一人なのだ。ドアに幽かなノックの音が聞こえる。いよいよ来たなという衝撃、むろん心臟の鼓動は早くなる。顔も青ざめるかもしれない。その恐怖が、ドアのそとまで伝わってくるような気がした。わたし自身の心臓も少し早くなっていた。

 美耶子とわたしは、ドアをひらいて、静かに中へはいって行った。

 酒巻はソワソワと立ちあがって、笑い顔とも泣き顔ともつかぬ妙な表情で、こちらを見つめていた。

 わたしたちは物を言う必要はなかった。ゆっくりと、酒巻の両わきから、はさみうちするように、迫ま(sic!)って行った。美耶子はタッソウ蠟人形館の女刺客のようなキリッとした怖くて美しい顔をしていた。彼女は多くは和服を着ていたが、その夜は黒っぽい洋装だったので、一層西洋女刺客の感じがした。わたしは少年時代に見た連続映画の女賊プロテアを思い出していた。わたしの方も、彼女のまねをして、殺し屋のような怖い顔をしていたにちがいない。

 酒巻は逃げ場を求めるように、キョロキョロと、あたりを見廻したが、この遊戯の被害者は逃げてはいけない規則になっていた。彼はそれを思い出したらしく、あの泣き笑いの顔で、じっと立っていた。

 美耶子は素早く酒巻に近づいて、持っていた紐をかれの太い脂ぎった頸に一巻きした。そして、一方の端を自分で持ち、もう一方の端をわたしに握らせた。いよいよこの男を絞め殺すのかと思うと、わたしは変な気持になった。むず痒いような恐怖が全身に行きわたった。

 そのとき、美耶子が、なにをぐずぐずしてんのよ、一思いにグッと引っぱるのよ、という目遣いをした。その眼がなんともいえない色っぽさであった。

 わたしは紐を力まかせに引っぱるまねをした。美耶子も歯をくいしばるようにして、むこうの端を引っぱっていた。まねといっても、いくらか力がはいるので、酒巻の太い頸はくびれ、顔は赤く怒張した。

 そこで、酒巻は妙なことをやった。両手を前に出して空をつかみ、歌舞伎芝居の断末魔のしぐさを、入念にやって見せたのである。わたしは吹き出しそうになるのを、こらえるのがやっとであった。そして、かれは息絶えて、床にころがり、そのまま動かなくなってしまつた。

 美耶子は、わたしと眼を見合わせ、刺客が目的を果たしたときのあの笑い方で、ニッコリ笑った。異常な場面のこの笑いは、わたしをジーンとしびれさせるような美しさだった。

「とうとう、やってしまったわね。あとはここへ手掛かりをのこしておかなけりゃいけないのよ。それには、わたし、用意しておいたものがあるの。もしわたしがスぺードのエースを引いたら、あなたを共犯者にしようときめていたので、二人の名を書きこんだ暗号なのよ」

 美耶子は、陰謀を打ち合わせる悪女のささやき声で言って、洋服の胸から一枚の小さな紙片をとり出して、わたしに手わたした。

 わたしはその紙片を見て、ハッと思った。そこにはポーの「黄金虫」の暗号に似た数字と記号が並んでいたからである。

・(6*C6・5096:5
C※9・06C6;:*※95

「『黄金虫』の暗号よ。でも、これはそらでは解けないわ。探偵さんは、これを解くのには『ゴールド・バッグ』の本をしらべなければならない。そのあいだに時間があるでしょう。わたしたち、それを利用して隠れるのよ。マーダー・パーティの最後は隠れんぼうなんだもの。その隠れる場所もちゃんと考えてあるのよ」

 美耶子はなかなかの犯罪企画者であった。日頃愛読する探偵小説の影響であろう。伊東が探偵小説の第一頁に犯人の名を書きつけておいたのを、本気になって怒ったのも無理はない。

 わたしたちは、被害者の死体のそばにその紙片を落としておいて廊下に出たが、そこで、美耶子は、どこかから呼子の笛を取り出して、烈しく二度吹き鳴らした。そして、わたしたちは、別かれ別かれになって、応接間にはいっていった。

殺人ごっこ(二)

 応接間には、もう伊東探偵のほかに二人集まっていた。やがてみんなが揃うと、伊東をのぞいて、一同が暖炉の前に一列にならんだ。むろん、わたしたち二人も、お互に離れて、ポーカー・フェースにつとめながら、その中にまじっていた。

 伊東探偵はシャーロック・ホー厶ズをまねて、パイプをくわえたまま、その前を行ったりきたりして、みんなの顔をジロジロと眺めた。 さっき、書斎の窓のカーテンの隙間から覗いていたのが伊東だったとすれば、犯人はもうわかっているはずなのだが、かれの方もポー力ー・フェースをして、意中をおもてに現わさなかった。

 しばらく、行ったりきたりをつづけたあとで、

「それじゃあ、これから現場をしらべてくる」

 と、パイプのあいだから、独り言のようにつぶやいて、ドアのそとへ消えていった。

 応接間に残った五人は、或る者は椅子にかけ、或る者は歩きまわりながら、お互に疑惑の眼を交して、誰が犯人かをさぐり合った。しかし、わかるはずはない。わたしも美耶子も、うまくやってのけた。

 そのとき、伊東探偵が書斎へ戻ってきたので、犯人を指摘するのかと、みんな固唾をのんだが、そうではなくて、書棚の前へ行って一冊の洋書を抜き出し、頁をくってみてから、それを持って、そそくさと部屋を出ていった。わたしは、そのあとへ行って、書棚を見たが、かれが持ち出したのは、やっぱりポー全集の一冊であった。「ゴールド・バッグ」のはいっている巻にちがいない。

 それで一応緊張のとけた人々は、てんでにタバコを吸ったり、書棚の本をとったり、新聞掛けの新聞をとったりして、安楽椅子にかけ、一時ゲームのことを忘れたようにくつろいでいた。

 美耶子が、わたしに目くばせをして、気づかれないように、部屋を出て行った。わたしは一分間ほど我慢をしたあとで、別のドアから、そっと廊下へ出た。廊下の向こうに美耶子が待っていた。わたしが近よると、彼女は先に立って廊下を歩いて行った。

 女中部屋と台所のあいだの廊下に、二枚の引き戸の閉っている一<templatestyles src="Ruby/styles.css" />(けん)の押入れがあった。美耶子はその板戸をひらいて、わたしを手まねきした。薄暗い廊下、まっ暗な押入れの中、その下段に、二人うずくまれるほどの余地があった。来たばかりの女中の荷物が少ないので、そこがあいていたのである。

 この美耶子の手招き、まっ暗な押入れの中への手招きは、肉感的な連想で、わたしをゾクッとさせた。わたしはからだが震えだすのを、じっと我慢しなければならなかった。

 わたしたちは、からだをくっつけあって、そのせまい暗やみにうずくまった。かびくさい匂いがした。美耶子は板戸をソッとしめた。あとには胎内を連想させる真の闇と肉体の感触だけが残った。

 彼女は無感動らしく、からだを触れさせていたけれども、わたしは固くなってちぢこまっていた。彼女が愛情のためにこういうことをするのだとは、まだ信じかねたからである。勝手な解釈をしてピシッとたしなめられるのが、おそろしかった。

 暗闇の中の肉体の暖かみが、ほんとうに胎内を感じさせた。楽しかったけれども怖かった。ブルブル震え出すのを相手に悟られてはたいへんだと、歯を食いしばっていた。もしここで愛情をささやくならば、彼女の方からでなければならないと思った。わたしの方から切り出すなんて、とてもそんな勇気はなかった。

 彼女はわたしの肩に腕をまわしていた。そのずっしりした柔い重味が、わたしを窒息させそうだった。伊東探偵はなかなかやってこなかった。「黄金虫」には暗号解読表がついているわけではないから、あの海賊キッドの暗号文のなかから、一字々々数字と記号を見つけて、あてはめて行かなければならない。それには相当時間がかかるはずだ。

「おそいわねえ」

 美耶子がわたしの耳のすぐそばでささやいた。頰に暖かい息がかかった。その「おそいわねえ」というささやきには、そそのかすょうな調子は少しも感じられなかった。やっぱり、彼女はただ子供らしく、マーダー・パーティの遊戯に熱中しているにすぎないのだろう。

 子供のころの記憶がよみがえってきた。隠れんぼうをしていて、なんとかいう可愛いい女の子と、やっぱり押入れの中へ一緒に隠れたことがある。鬼に見つけられるまでに十分ぐらいかかったと思うが、そのあいだ、わたしはその女の子と抱き合ってくっついていた。おとなのような遠慮はないから、頰っぺたさえ、くっつけ合っていた。女の子の頰はスモモのようにすベすべしていた。藁のような匂い がした。その子とは、じきに喧嘩をして仲よしでなくなったが、押入れの中のことだけが、いつまでも忘れられなかった。

 しかし、美耶子とわたしの隠れんぼうは、もっと永く、二十分ほどもつづいた。伊東探偵がなかなかやってこなかったからである。おとな同士だけに、子供のように無邪気には行かなかった。二人のからだの接触面が、ぶしつけなほど熱くなってくるので、ときどき身動きをしてそれを変えるのだが、すると、またじきに、ねっとりと熱くなってくる。それが動悸をうっているのだから、始末がわるい。

 美耶子はその永いあいだに、「おそいわねえ」というまったく同じ言葉を三度くりかえしたほかは、なにも言わなかった。一つには、そとへささやき声がもれてはという気遣いもあってだが、わたしの方もだんまりでいた。なにをいっていいか、わからなかったからである。

 わたしは美耶子の無関心に、ひどく腹を立てながら、しかし一方では、この接触を楽しんでいたのだが、しまいには腹立たしさの方が強くなり、早く伊東が発見してくれることを待ちかねる気持になっていた。

 すると、廊下を足音を忍ばせて歩いてくる幽かな音が聞こえてきた。伊東にちがいない。わたしと美耶子は、からだの接触面で合図をし合った。押入れの板戸のそとで、足音がピッタリ止まった。今にも戸をひらくかと待ちかまえたが、なかなかひらかない。じっと佇んで聴き耳を立てているらしい。わたしたちは息を殺した。この危機の刺激によって、ねっとりとくっついている美耶子が、俄かに、烈しく、いとおしくなるのをどうすることもできなかった。

 はっとしたときには、わたしの右手は、彼女の右手を握っていた。伊東が来たのにおびえたあまり、握ったのだと解釈できないこともなかった。しかし、わたしはいつまでもその手を放さなかったばかりか、だんだん力をこめて、強く強く握りしめていった。

 美耶子は別に手を引きはなそうとはしなかった。気のせいか、先方でも握り返したようにさえ感じた。しかし、それは目前の危機に気を奪われた、無意識の反射的な動きであったかもしれない。

 しかし、美耶子の気持を確めている余裕はなかった。そのとき、押入れの板戸が、静かに引きあけられ、廊下の電灯の中に、伊東が立っていたからである。

「あの暗号はいい思いつきだった。昼間のうちから、ちゃんと用意していたんだね。むろん美耶子だろう。野間は今夜マーダー・パーティをやることを知らないで来たんたからね。おかげで、解読にずいぶん手間どった。そのあいだ、君たちはここに隠れていたのかい」

 二人が押入れから出るあいだに、伊東はこんなことをしゃべっていた。別に焼き餅をやいている様子もない。まるで、空気男のわたしなどは、子供扱いにしている調子だった。

「野間、君はぼくの細君をくどいたんじゃないかい。いや、君にゃ、とてもそんなことできそうもないね。ハハハ……」

 伊東は廊下を先に立って歩きながら、そんなこともいった。焼いてもいないのに、なぜそんなことを、ずけずけ言うのか、わたしは彼の真意を捕捉しかねた。彼の言葉のうらには、なにかがあった。だが、それがなんであるかを解くことができなかった。

 わたしたち三人が応接間にはいると、待ちかねていた人人の顔が、一斉にこちらを向いた。

「諸君、犯人はこの二人だった。被害者は食堂に倒れている。それはここに顔の見えない一人だから、いわずともおわかりだろう。暗号解読に手間どったので、被害者は頸に紐を巻きつけられたまま、食堂のジュウタンの上で、今ごろはグウグウ寝こんでいるかもしれない」

 伊東は暖炉の前に立って、みなに説明をはじめた。わたしと美耶子とは、空いている椅子にかけて、話を聴くがわにまわった。

「兇器は紐、美耶子と野間の共犯だ。現場にこの紙きれが落ちていて、ポーの『黄金虫』の暗号が書いてあった。さっき、ぼくがここへ来て、書棚からポーの本を持って行ったのは、それを解くためた。手数がかかった。十何分もかかった。この紙きれを廻すから、君たちも見てくれたまえ」

 といって、暗号の紙片を、手近な一人に渡した。

「これは文章を書くときに必要ないろいろな数字と記号だが、昔のタイプライターは、こういう記号が全部うてるようになっていた。この記号の中で、Cだけが、アルファベットの一字だが、これは『黄金虫』の暗号文には一度もCの字が出ていないので、仕方なく元の字をそのまま入れておいたのだ。

 あとの記号を、ポーの暗号にあてはめてみると、その答えはこういうふうになる。ここに書きつけておいたから、これもみんなに廻してもらおう」

 その紙片には次のようにしるしてあつた。

・(6*C6・5096:5
PRINCIPALMIYA
C※9・06C6;:*※95
COMPLICITYNOMA

「この英文はつづいているので、はなして読むと、プリンシパル、ミヤ、すなわち主犯、美耶子だね。次の行はコンプリシティ、ノマ、すなわち共犯者、野間となる。これで犯人がわかった。あとは、二人の隠れている場所を探すだけだ。自分のうちだから、どこに隠れ場所があるかぐらいは、よくわかっている。二人は廊下の押入れの中に隠れていた。これでぼくの捜査は完了したわけだよ」

 人々のあいだから拍手が起こった。わたしも美耶子も、それにつれて拍手した。

 そこへ、被害者の酒巻が自分も手を叩きながら、のっそりとはいってきた。ずっと倒れたままでいたらしく、服が乱れ、頸にはまだ紐を巻きつけていた。

「廊下で聞いていたよ。どうもマーダー・パーティってやつは、犯人が一番やりがいがあるようだね。その次が探偵。被害者は下の下だよ。頸をくくられて、死んだまねをして倒れているなんて、じつにつまらない役だ。今度からは、スぺードのエースを引かなきゃウソだね。

 美耶子さんに共犯者に選ら(sic!)ばれた野間君はあやかりものだ。奥さんと押入れに隠れるなんて、羨ましいと思ったね。暗号は奥さんが書いたのだろうと思うが、ポーの『黄金虫』とは、いい思いつきだったね。解くのに時間がかかるからね」

 酒巻のおやじは、ずけずけと変なことを口走った。


破局 (一)


 私は毎日のように伊東の家に入りびたっているものだから、伊東の生活の細部まで自然にわかってきたのだが、彼は二日に一度、三日に一度、昼間、家をそとにすることがあった。どこへ行くのかわからない。独りでジョークを演じて歩いているのかもしれないが、それならば、わたしになにも話さないのがおかしい。外泊するわけではない。午前から午後にかけて数時間の場合が多かった。

 手品師というものは、うちとけていても、なにか秘密を隠しているようなところがあるものだが、ジョーカー伊東にも、そういう秘密めいた性格があった。わたしは、交友一年に近く、かれのことはなんでも知っているようでいて、ほんとうは、相当大きな部分が不明のまま残っていた。つきあえばつきあうほど、わからなくなるようなところがあった。かれの三日にあげぬ外出なども、その一つだった。

 ある日、かれの留守中に訪ねて、美耶子としばらく話して帰ったことがある。そのとき、わたしは、かれの昼間の外出についてたずねてみた。

「伊東はどこへ行くんだい。よく留守にぶっつかるね。かれ、どっかへ、こっそりオフィスでも作って、われわれのまったく知らない別の生活をしてるんじゃないかな」

「そうよ。オフィスはもってるわ。兜町のビルの一室の中の机一つだけのオフィスよ。わたしにも来るなというんで、行ってみたこともないけれど、その部屋は幾人かで借りていて、一人が机を一つずつ持っていて、みんなに共通したボーイが一人雇ってあるんですって」

「じゃ、株をやっているの?」

「そうらしいわ。そこへ行くたんびに、いくらかお金を持って帰るの。わたしたち、それで生活して余るくらいよ」

「へえ、腕だなあ。儲けるばかりで、損をしないのかい」

「そうらしいわ。ジョークの手を使つてるのかもしれないわね」

「しかし、そんなにしなくても、伊東には充分生活できるだけの資産があるんだろう、親譲りの」

「かれ、あんたに、そんなこといった?」

「うん、最初会ったときに、そういっていた」

「でたらめよ。資産なんてありゃしないわ。かれはどっかで、絶えずお金を儲けてくるの。それがわたしたちの全収入よ」

「へえ、たいしたもんだな。ここの生活は、ひどく派手だからね。ぼくなんか、母親の送金だけでピイピイいってるんだよ。その金儲けの手を教えてもらいたいもんだな」

「だめよ。かれの秘密なんだもの。わたしにだって教えないわ。あの人はいろいろ秘密のある人よ」

「この前の義眼、義手、義足の人みたいにかい?」

「うん、そうよ。心理的には、そんなふうだわ」

「きみ、かれが怖い?」

「ええ、怖いのよ。ちょっと奥底が知れないみたい」

「夫婦でもかい。かれはきみを愛してるんだろう?」

「それは愛してるけど。うちあけないのよ。秘密は秘密なのよ」

「じゃあ、昼間長く留守のときなんか、退屈だね。君は焼かないのかい」

「その方は大丈夫よ。それはよくわかっているの」非常な自信である。「そして、退屈もしないわ。わたし探偵小説を読む時間がほしいから」

「もう、かれ、第一頁に犯人の名を書くことはよした?」

「よしたわ。ジョー力ーって、一度そのジョークが、みんなにわかってしまうと、もう興味がないのね。また新しい手を考え出すんだわ」

 そのとき、わたしたちは、応接間の長椅子に、並んで腰かけていた。わたしの意志がそれをきめたのではない。反射的に手が伸びて、あっと思うまに美耶子の手を握っていた。そして、次の瞬間には、それ以上の行動に移ろうとさえしていた。 「あらっ……」

 その小さな叫び声は、わたしへの抵抗ではなかった。彼女の眼はひらいたドアに注がれていた。わたしも眼の隅でそれを捉えた。何者かの黒い影が、スーッと、ドアの向こうを通りすぎたような気がした。

「あれだれだい?」

「わからないわ」

 ささやき合って、恐怖の眼を見交わした。たしかに男だった。伊東ではないかと思った。

「見てくるわ」

 美耶子は、そそくさと椅子から立って、ドアのそとへ出ていった。しばらくすると、青い顔をして帰ってきた。

「誰もいないわ。シゲがいるきりよ」

「あれ伊東じゃなかった?」

「わたしも、そんな気がしたの。でも、影みたいなものだったわ。気のせいかもしれない」

 そのとき、玄関のベルが鳴った。美耶子にはベルの鳴らし方で、それが誰だかわかったらしく、急いで部屋を出てぃった。

 伊東が帰ってきたのであった。

「ああ、野間か。ちょうどよかった。いま道で、新らしいジョークを一つ思いついたんだよ」

 これは、わたしにとって救いだった。もしなにも話題がなかったら、わたしはこの場をどう切抜けたらいいのか、途方にくれたことであろう。

 伊東はその着想に夢中になっているらしく、勢いこんで話しはじめた。

「ちょっと準備が要るんだがね。公園に置いてあるようなベンチを注文するんだ。それができたら、トラックで公園の中へ運んでもらう。ほどよきところに、それを据えるんだね。そして、おれと君と二人がそれに腰かけているんだ。いや、二人じゃ重すぎるかな」

 かれは変なことをいった。しかし、その意味はすぐにわかった。

「もう一人仲間を誘うんだね。三人で腰かけているんだ。そして、おまわりが巡回してくるのを待つのだよ。おまわりが来たらね、三人は立ちあがって、そのベンチを持ち上げ、公園のそとへ運び出そうとするんだ。おまわりはびっくりして呼びとめるだろう。ベンチ泥棒 と思うからね。ゴタゴタやっていると、ヤジ馬がよってくる。充分見物が集まったころを見はからって、『これはほくたちのベンチですよ』といって、家具屋の受け取りを出してみせるんだ。それでも、ぐずぐずいったら、公園の監理人を呼んでくればいい。もともと、そこはベンチの置いてなかった場所だということが、すぐわかるわけだからね。そこで、ぼくらはベンチを運んで、あっけにとられた見物の中を悠々と立ち去る。幕――というわけだよ。どうだい、少し金がかかるけれども、実演の価値なしとしないだろう」

「うん、すてきだ。こいつはいいや。一度やってみようじゃないか」

 そして、わたしはすっかり緊張がほぐれ、それからしばらく、いつものジョーカー雑談をして帰ったのだが、アパートに戻ってから、この出来事を思い出してみると、なんだか奥歯に物のはさまったような、すっきりしないところがあった。

 あの影のように、ドアの前を横切ったやつは、やっぱり伊東ではなかったのだろうか。かれは、コッソリ外出から帰って、美耶子とわたしの会話を立ち聞きし、ひょっとしたら、あの行動までも目撃したのではなかろうか。そして、ソッと一度表へ出て、改めて玄関のベルを押したのかもしれないではないか。

 帰ってくると、すぐに、あのベンチのジョークの話をしはじめたのも、なんとなく変であった。わたしはあれで救われたのだが、かれの方でも、姿を見られたことをごまかすための手として、あんな話をはじめたのかもしれない。

 では、かれはなぜ、立ち聞きをしたり、それをごまかしたりしなければならないのか。焼いているのなら、直接わたしをどなりつけるか、出入りをさしとめればすむことではないか。そんなことを、わたしに遠慮するようなかれではない。そこに、かれの行動には妙な矛盾があった。

 それともかれは、男性としての自分の力をためしているとでもいうのだろうか。わざと美耶子をわたしに接近させたり、二人だけになる機会を作ったりして、美耶子がわたしに惹かれるかどうかを、ためしているのではあるまいか。そう考えると、思い当たることが幾つもあった。

 もしそうだとすれば、かれは、ぶおとこのわたしに、たかを括り、わたしがいくら美耶子を愛しても、美耶子は伊東のほかの男には見向きもしないのだということを確めて、わたしを恥かしめ、優越感を味わおうとする、一種のサディズムではないか。

 美耶子自身は、これを、どう考えているのだろう。かしこい彼女のことだから、この不思議な関係に気づいていないはずはない。それにもかかわらず、わたしの愛情を強く拒む様子もないのは、なぜであろう。彼女は浮気女なのだろうか。良人としての伊東は愛しているけれども、わたしの愛情をも拒まないという、そんな性格の女だろうか。だが、彼女がそういう女だとはどうしても考えられない。すると、伊東を嫌って、わたしに傾きかけているということなのだろうか。いやいや、そんなばかなことがあるはずはない。

 とつおいつ考えていると、頭がこんぐらがって、なにがなんだかわからなくなってきた。わたしは抽象的なことは、よく覚えているはずだが、その抽象のもとは、やはり具体的事実である。わたしは今まで書いてきたような出来事を、具体的事実と信じているけれども、なにしろ空気男のことだから、そのなかには例の白昼夢が混っていないともかぎらない。もしそうだとすれば、わたしは判断の基礎を失ってしまうわけである。

 その夜はまんじりともしなかった。いくら考えてみても、同じ論理の堂々めぐりにすぎないとわかっていても、ぐちらしく、いつまでもその考えをやめることができなかった。わたしは、これが昔の恋わずらいというものであろうかと、苦笑しながらつぶやいたものである。


破局(二)


 それから、あのことが起こるまでの一と月ほどのあいだに、これと似たような場合が数回あった。接吻にさえも及ばなかったけれども、言葉のあやによって、目遣いによって、手の接触によって、わたしと,美耶子とは恋愛遊戯をやっていたのである。もっとも、そういう気持は、わたしの方だけで、先方は軽い冗談のつもりだったかもしれないが、彼女の強い抵抗を感じたことは一度もなかった。彼女は冗談の程度ならばわたしの愛情を受けいれる気持なのか、それとも、わたしという男性をばかにしきって問題にしていないのか、どちらかにちがいないのだが、それが、わたしにはよくわからなかった。まさかばかにしているのではあるまいと、自から慰めてはいたのだけれど。

 そういう場面は、むろん伊東の不在のときにおこるのだが、ところが、気味の悪いことには、いつの場合も、二人が話し合っているあいだに、ふと、身近かに伊東のけはいを感じるのだ。どの場合も、ほとんど例外なくそうであった。あるときは、さっきの例のように、伊東の影を見ることもあった。あるときは、どこか離れた部屋から、伊東の短い叫ぶような言葉と笑い声が、幽かに聞こえてくること もあった。またあるときは、ただ単に伊東のけはいだけを感じた。誰もいない。音もしない。しかし、わたしたちのすぐ身近に伊東がいるという、強い感じを受けるのである。そのために、わたしの愛情の表現は、いつも中断されてしまうのが常であった。

 わたしはこの影のような伊東と、心の中で烈しく戦っていた。かれはジョークの天才のほかに、なにか催眠術のような力をもっているのではないかとさえ疑った。遠隔催眠というか、人に自由に幻想を起こさせる魔力を体得しているのではないかと疑った。二人の勝負は、お互の意力の強弱によってきまるのだと思った。わたしはだんだん、伊東と意力の果たし合いをしているような気持になって行った。これは欲目かもしれないが、わたしは美耶子の心が少しずつわたしの方へ傾きつつあるようにも感じていた。ほんとうのことはわからない。ただそう感じるだけなのだが、そう感じれば感じるほど、わたしは伊東が怖くなりはじめていた。肉体的には何事もない、キッスさえしていないのだが、心理的には、わたしの方では相当深入りしていたのだから、相手の男に恐れを感じるのは当然にはちがいない。しかし、伊東という男は、そういう関係の相手としては、最も難物に属していた。妙に奥底の知れない無気味なところがあった。わたしはかれに超人のようなものを感じていた。それだけに怖さもひとしおであった。

 そして、ついにあの破局の日が来た。

 伊東は三日ばかり神戸へ旅をすることになった。美耶子によると、かれは例の誰も知らない用件のために、一年に二、三度は関西へ旅行するということであった。わたしが友だちになってから間もなく、一度そういう旅をしたらしいが、そのころは、毎日かれの家へ入りびたるほどになっていなかったので、わたしは気がつかなかった。

 美耶子とわたしは、かれを東京駅に見送った。午前の特急であった。

「留守中は美耶子をたのんだよ」

 伊東は汽車の窓から、メフィストの微笑を見せて、そんなことをいった。まるでわたしを信頼しきっているような言いぐさである。あの奥底の知れない男は、この言葉によって、わたしにどんな意味を伝えようとしたのであろう。かれは、わたしの美耶子に対する心持を知りすぎるほど知っているはずだ。また、美耶子がそれに対して、無抵抗に近いことも、わかっているはずだ。そのわたしに向かって、「たのんだよ」というのは、「自由に楽しみたまえ」といわぬばかりではないか。

 だが、かれがそんな意味を含めたはずがないことは、わかりきっている。では、例の「できるならやってみるがいい」というサディズムめいたいやがらせだろうか。その優越的な自信のほどを示したのであろうか。どうも、そうとも信じきれない。なにかがある。なにかが奥歯にはさまって残っている。

 わたしと美耶子は電車にのり、途中で別か(sic!)れて帰ったが、アパートの四畳半で、くよくよ物思いに耽っているうち、今夜、アパートへ美耶子を誘ってみようという気持になった。思いたつと一刻も我慢ができなかった。わたしは階下の事務所の電話へ走って行った。

 美耶子はわたしのアパートへ二、三度来たことがある。しかし、いつも伊東といっしょだった。ひとりで遊びにきたことは一度もない。

 電話をかけると、「夕方行きます。御馳走持っていくわ」と答えた。それを聞くと、わたしはもう胸がドキドキしてきた。むろん嬉しいのだが、怖くもあった。遠くにいる伊東を恐れる必要はなかった。美耶子その人が怖いのである。

 彼女は約束の通り、五時ごろ、わたしの汚いアパートへやってきた。わたしはことさら、彼女を迎えるために掃除などしなかった。本や新聞や出前の洋食弁当の丼などが、ちらかっているままにしておいた。掃除をすると、はげた壁や、赤くなった畳が目立って、かえってみすぼらしくなるし、また、そういう構えた迎え方は、わたしの趣味ではなかった。髪に櫛を入れもしなかったし、着物も皺になった<templatestyles src="Ruby/styles.css" />不断着(ふだんぎ)のままでいた。

 美耶子は和服を着てやってきた。洋服も和服もよく似合う女だった。日本式の柳腰のガニ股ではなくて、背が高く、足はすらっと伸び、胸も腰も恰好よくふくらんでいたので、洋服にも適したからだ。和服の姿もよかった。現在の女性がしているように、和服を洋風に着こなす術を、そのころから心得ていた。

 彼女は笹ずしの折を下げていた。わたしは、土瓶をさげて下に降り、熱いお茶をもらってきた。

「まあ、随分とりちらかしているのねえ」

 美耶子はそういって、あたりを見廻したが、それをかたづけようとはしなかった。隅においてある机の前に坐ると、まず本立ての探偵小説の背中を見た。洋書もまじっていた。

 「あらっ、これなに、このビッグ・ボウ・ミステリっていうの。ザングウィルなんて人しらないわ」

 そのころは、むろん、まだ「ビッグ・ボウ」の翻訳は出ていなかった。

 「ドイルの初期と同じ時代の古い作品だよ。面白いよ。心理的密室トリックの先祖だね。ザングウィルというのは、そのころ有名だった左がかった普通の小説家だ」

「へえ、面白そうね。読んでみようかしら」

「君のうちにもあるよ。本棚のドイルの前あたりに置いてあった。黒い小型本だから、すぐわかるよ」

「伊東はどうして、この本のこと教えてくれなかったのかしら。そんなトリックの元祖なら、自慢するはずなのに」

「かれは余り認めてないのかもしれないね」

「あなたは好きなの?」

「大好きだよ。ぼくのベストテンにはいるくらいだ」

「じゃあ、読むわ」

 その調子が、良人の好みより、あなたの好みの方がすきだわ、というふうに聞こえた。

「ぼくのアパートへ一人で来たの、はじめてだね」

「ええ、でも、この部屋は知っているわ、あいかわらず汚いのねえ」

「きみがここへ遊びにきても、伊東は怒らないのかい」

「おこるわ。出発する前に、まさかそんなことしないだろうけど、あいつのうちへ行っちやいけないといったわ」

「へえ、そんなこと言った?きみ、いいのかい」

「でも、内証よ。まだ言ったわ。わたしのうちでだって、二人きりで会っちゃいけないって、きびしい顔して言ったわ。ちゃんとお目付けがたのんであるぞって、いったわ。でも、平気よ。なんでもないんですもの。退屈だったら、男のお友だちのうちだって、遊びに行っていけないって法はないわね」

「へんだなあ。それほど警戒するくらいなら、ぼくたちを接近させなけりゃいいのに。なぜだか、ぼくたちは、くら闇で、くっついて坐る機会が多かったね。あれはいったい誰の意志かしら。そういうふうに坐らせないでおこうとおもえば、かれになら、どうにでもなるわけだからね」

「あれは、わたしの意志よ」

 この大胆な表白に、わたしはギクッとした。嬉しいというよりも驚きの方が大きかった。

「でも、君は知らん顔してたじゃないか。ぼくはブルブル震えているのに、君は平気だったじゃないか」

「平気じゃなかったわ。わたし、あなたが震えてるのを感じて、感動していたのよ。女はああいうとき、我慢強いものよ。偽善者なのね。でも、わたし、うれしかった」

 そして、はじめて彼女の方から、わたしの手を握った。わたしはもう無我夢中になって、彼女のすべすベと張り切っているからだを、息がとまるほども抱きしめた。

 恐ろしい破局が来たのは、それから三十分ほどしてからであった。

 ギョッと気がつくと、わたしたちの枕もとに、まっ青な顔をして、怒りにブルブルふるえている伊東の黒服姿が立ちはだかっていた。それが巨人のように大きく見えた。

 ドアには内側から鍵をかけておいた。それを彼はやすやすとひらいたのだ。事務所のおばさんが、わたしがいるのに合鍵を渡すはずはない。伊東はなにかの方法で、わたしの部屋の合鍵を造って用意していたのにちがいない。

「なにもいうことはない。美耶子、帰るんだっ」

 伊東はそういって、手荒く彼女の腕をつかんで引き起こした。それから、美耶子は恥かしい身じまいをしなければならなかった。

 わたしは観念して眼をつぶっていた。今にも鉄拳が飛んでくるかと、それを待ちかまえていた。

 しかし、伊東は何もしなかった。部屋がシーンと静まりかえっているので、変だなと思って、眼をひらいたときには伊東も美耶子も、もうそこにはいなかった。あとにドアがぴったりしまっていた。


監禁


 わたしは心臟が空っぽになったような気持で、そのまま身動きもしないで寝ころんでいた。なにも考えられなかった。汗をベットリかいていた。恐ろしい夢を見たあとの感じだった。

 そのとき、下から事務所のおばさんが呼びにきた。酒巻から電話がかかってきたのだ。わたしは急いで階段を降りたが、中段で目の前がスーッと暗くなって、危く倒れるところであった。手すりにつかまって、やっと転落をまぬがれた。

 電話は伊東がわたしの処分を伝える伝言だろうと覚悟していたが、そうではなかった。

「野間君かい。酒巻だよ。さっき伊東君のうちへいったら誰もいない。女中に聞いてみると、美耶子さんは、どこへ行くとも言わないで外出したというんだ。まさか君のアパートへ行つたんじゃあるまいな」

 酒巻は自宅へ帰ってから電話をかけたのであろう。

「来ていたんだよ。だが、つい今しがた帰った。酒巻さんは伊東になにか頼まれていたのかい?」

 さっき美耶子が口にした「お目付け」という言葉を、とっさに思いだして、あからさまに尋ねてみた。

「いや、そういうわけでもないが、ちょっと心配になったんでね。きみ、美耶子さんに手出しをしちゃいけないぜ。どうもそんなふうな徴候が見えるので、わしゃハラハラしているんだ。注意してくれよ。折角のわれわれのクラブがめちゃめちゃになつてしまうからね。いや、それだけならいいが、なにか恐ろしいことが起こりそうな予感がするんだいいかい、きみ、大丈夫だろうな」

「心配しないでもいいよ。大丈夫だよ」

 わたしはそう答えるほかはなかつた。

 それからまる二日のあいだ、わたしはアパートの部屋にとじこもったきり、どこへも出なかった。本も読まず、新聞も読まず、食事も一日に一度ソバかウドンを取るくらいで、ほとんど絶食に近く、ただ天井をにらんで、ねそべっていた。二、三度電話がかかってきたが、相手の名も聞かないで、いないといってことわってもらった。ひょっとしたらその電話は美耶子からかもしれないと思ったが、歯を食いしばって我慢した。いま彼女と話したりしちゃいけないと思った。

 あの出来事があってから三日目の昼すぎ、ドアにノックの音がした。聞き慣れぬノックの仕方であった。わたしは棄てばちになって、だまっていた。

 すると、ドアがひらいて、酒巻がはいってきた。ジョー力ー・クラブで最年長の手品狂、太っちょの料理屋のおやじである。酒呑みのてらてらしたあから顔で、笑いながらはいってきた。

「どうしたんだね。いま事務所のおばさんに聞いたんだが、まるで飯も食わないそうじゃないか。なにかあったんだね」

「いや、なんでもないんだ。少し気分がわるくてね」

 酒巻はわたしの机の前の座蒲団に坐って、タバコを出しながら、首を前につき出し、声をひそめて話しかけてきた。わたしは、ふてくされたように、両手を頭のうしろに当てて、仰向けに寝ころんだままでいた。

「へんなことがあるんだよ。伊東君は神戸へ行くといって出発したが、旅行なんかしなかったらしい。その日のうちに帰っているんだ。きのうの夕方伊東君のうちへ行ってみたんだがね。かれ、うちにいることはいるらしいのだが、誰にも会わない。みんな門前払いだそうだ。もっとおかしいのはね、シゲやに聞くと、奥さんの姿が見えないっていうんだ。外出したのじゃない。なんだか一間へとじこめられているらしい。食事はどうしているんだと聞くと、シゲやは運ばない。旦那様が台所から、なにか持って行ってやっているらしいというんだ。

 伊東君は書斎にとじこもって、誰にも会わない。ジ(sic!)ゲやにそこへ食事を運ばせ、夜もそこの長椅子で寝ているらしい。シゲやがはいっていっても、一とことも物を言わないで、怖い顔をしているというのだ。きみ、これは一大異変だよ」

 そうか。そんな風になっているのか。それじゃあ、美耶子は電話などかけられないし、手紙もよこせないわけだ。

「そこでおれは考えてみたんだがね。この異変はどうしても君に関係がある。そうとしか考えられない。なぜといってみたまえ。いいかい。このあいだ電話をかけたとき、きみは、美耶子さんが来ていて、いま帰ったところだと言った。それは伊東君が出発した日の晚だ。シゲやに聞くと、きみと美耶子さんが、伊東君を東京駅へ見送りに行ったという、その晩のことだよ。

 伊東君の留守中に、美耶子さんが、独りものの君の部屋を訪ねる。しかも夜だ。これがすでにただごとではない。いいかい。それがだ、あの晩わしが電話をかけたのは、まだ宵のうちの七時ごろだった。美耶子さんが君を訪ねたからには、そこには、よからぬ思惑があったにちがいない。それが、七時という早い時間に、亭主のいないうちへ帰るというのは、不自然だ。おかしい。いいかい。そこで、おれは、こういう想像をめぐらしたんたよ」

 酒巻は、そこまで言うと、思わせぶりに一休みして、タバコをスパッ、スパッと、おいしそうに吸いつづけた。わたしは、かれの話術に閉口して、ずばりといってのけた。

「そうだ。君の考えた通りだよ。伊東は汽車には乗ったが、どこか近くの駅で降りてしまった。そして、わたしのアパートをさぐって、美耶子がまだ来ていないとわかると、自分のうちのまわりをウロウロして見張っていたのだ。それから、美耶子が外出すると、そのあとをつけて、ここへやってきた。ドアのそとで、なにもかも聞いてしまった。そして、頃あいを見て、ここへ飛びこんできたんだ」

「それから、どうした」

 酒巻は好奇心に眼を輝かせて、さらにわたしの方へ顔をつき出した。

「あいつは美耶子さんの手を引っぱって、つれ帰ってしまった。それだけだ」

「へえ、喧嘩にはならなかったのかい?」

「おれは殴られる覚悟をしていたが、なにもしなかった。おれには言葉さえかけなかった」

「ふうん、よくよく怒っていたんだね。口喧嘩なんか以上の真からのいかりというやつだな。そして、うちへ帰ると、奥さんを一室に監禁して、自分も一間にとじこもってしまった。おそろしいことだな」

 酒巻はじっとわたしの眼を見つめた。わたしも無言で、彼の眼を見返していた。

「じつはね」酒巻が打ちあけるようにいった。「おれは伊東君にたのまれていたんだよ。旅行の留守中、君と美耶子さんに気をつけてくれってね。このあいだの晚、電話をかけたのも実はそのためなんだ。そういうわけで、この件については、おれも責任を感じなければならない立場なんだよ」

 そういって、小首をかたむけて、考えこんでしまった。

 そこで、わたしは言ってやった。

「責任は伊東にもある」

「えっ、伊東に?」

「そうだよ。かれが、おれたち二人をくっつけたようなもんだよ。それはね、ぼくらはよく、まっくらなところで、ジョーク遊びをやるだろう。そのとき、きまったように、美耶子とぼくと、隣合わせになって、からだがくっつくんだ。おれもそうしたかったし、聞いてみると美耶子もそれを望んだというんだが、伊東がそうさせないようにすれば、いくらでもできたんだ。

 そればかりじゃない。伊東のうちで、ぼくと美耶子と二人だけになるような機会が幾度もあった。そういうときに伊東のやつは、まるで影のように、ぼくらにつきまとって、こっそり立ち聞きしたり、のぞいたりしていたんだ。そして、少しも文句をいわなかったんだ。なんだか、それを楽しんでいるようなふうなんだ」

「まさか……楽しむ気持なら、今度だって怒ることはないじゃないか。伊東君が失望の底に沈んでいるのはうそじゃないよ。お芝居とは思えないよ」

「ここにたった一つ、いろいろな矛盾を矛盾でなくする解釈があるんだ。それはね、サディズムだよ。伊東というやつは恐ろしいサディストだという解釈だ」

「ふうん?それはどういう意味だね」

 わたしはムックリと起き直って、酒巻の正面に坐っていた。

「優越感の満足といってもいい。ぼくは美耶子を一と目見たときから惚れていた。伊東にはそれがよくわかっている。それで、美耶子を、わざとぼくに接近させて、ぼくが煩悶するのを見て嘲笑しようという優越者の遊戯を思いついた。ぼくはいじめられっ子で、あいつはいじめっ子の楽しみを味わおうというわけだよ。だから、あいつは、せいぜいぼくらが一緒になる機会を作って、それをどっかから隙見して、悦に入っていたんだ。ジョークというものには、そういう残忍性がある。あいつはジョークの天才だから、その方の性格は充分備えているわけだ。

 かれが百パーセントの自信を持っていたのも無理はないよ。かれはあのスマートな好男子で、おれはこういう顔をしているんだからね。まるで勝負にならない。それがかれのつけめだった。そして、あの晩までは、かれの思う壺に運んでいた。こいつは危険だと思うときには、あいつは、どこからか現われて、それ以上の進行をさまたげていた。

 しかし進行をさまたげなければならないということは、すでに自信喪失の一歩手前だ。さすがのかれも少し迷い出してきた。ひょっとしたら美耶子の方でも、ぼくに好意を持ち出したのじゃないかという疑いがきざしてきた。そこで偽装旅行をやって、試験をしてみることにした。すると、あの始末だからね。かれは一挙に自信を失った。得意の絶頂から真逆様にころがり落ちた。これはああいう男にとっておそろしい悲劇だよ。それが、女房を横取りされた怒りを二倍、三倍に強めているんだ。君のいうように、一間にとじこもって、じっと考えているかれの心境は暗澹たるものだね……おれはなんだか怖くなってきた。美耶子さんを救い出さなければ……」


地下室


 しゃべっているうちに、わたしはえたいの知れぬ恐怖におそわれはじめた。

「美耶子はいじめられているにちがいない。ひょっとしたら、一間にとじこめて、食事を与えないで、絶食の刑にしているのじゃないだろうか」

 わたしがそうつぶやくと、酒巻もあから顔を白くした。

「うん、あの気性の烈しいやつのことだから、そんなことも考えられなくはないね」

 わたしたちは、また顔見合わせて、しばらく、だまりこんでいた。

「行ってみよう。どうも、これはただ事でないよ」

 わたしは、もう立ち上がって、外出の用意をしはじめた。

「うん、そうした方がいいかもしれんな」

 酒巻もそわそわしていた。

 わたしたちはバスにのって、伊東のうちへ急いだ。

 伊東家の門前にはタクシーがとまっていて、女中のシゲが、よそ行きの服装で、運転手と一緒に、車へ荷物を運んでいるところだった。ひまを出されたという様子である。

「どうしたの?きみ、どっかへ行くの?」

 わたしが尋ねると、シゲは、

「おひまが出ましたの。これから本所の親戚へまいります」

 といつた。

「じゃあ、きみの代りの人が来たのかい?」

「いいえ」

「伊東君や奥さんはいるんだろう」

「ええ」

「きみが行っちまったら、困るじゃないか。奧さんが台所をやるのかい」

「いいえ、奥さんは顔をお見せになりません。あたし、御挨拶もできなかったんです」

「伊東君は?」

「旦那さまは地下室です」

「えっ、地下室って?」

「地下室で、朝早くから仕事をしていらっしゃいます」

「仕事?」

「セメントをこねて、地下室の床から水が漏るといって、直していらっしゃるのです」

「そして、君にひまを出したんだね」

「あたし、なんだかわけがわかりませんわ」

 わたしたちにも、わけがわからなかった。伊東の家には、西洋風の地下室があった。かれは、そこに葡萄酒などを保存していた。しかし、地下室の水漏れを、なにも自分で直すことはないだろう。職人を雇えばいいではないか。わたしと酒巻とは、また、青ざめた顔を見合わせた。

「ともかく、行ってみよう」

 わたしたちはシゲにわかれて、門の中へはいっていった。ポーチにあがってドアをひらこうとしたが、鍵がかかっている。ベルを幾度も押したけれども、なんの反応もない。一刻も猶予はできないという危機惑が胸をしめつけた。

 わたしたちは、建物の横手を廻って、台所口へ急いだ。窓という窓はみな閉めきって、カーテンが引いてある。

 台所口の戸には鍵がかけてなかったので、われわれはそこからはいって行った。どの窓にもカーテンが引いてあって、家の中は薄暗い。電灯もついていない。シーンと静まりかえって、空き家のようだ。

「伊東君」と何度も声をかけたが、答えがないので、地下室へ降りてみることにした。わたしたちは、その降り口をよく知っていた。

 行ってみると、降り口の上げ板がひらいたままになって、コンクリートの階段が見えている。そのへんは外光もはいらないので、まっ暗だが、地下室にはカンテラがおいてあるらしく、赤っぽい光が、幽がに階段を照らしていた。

「伊東君……」

 わたしは大きな声でどなったが、なにも答えない。そのくせ下からは、ガサガサと変な物音がきこえてくるのだ。

 なにか危険が待っているような気がして、急には決心がつかなかったが、いつまでも躊躇しているわけには行かない。二人は小声で相談をして降りてみることにした。わたしが先に、酒巻はあとから、コンクリートの階段を一足ずつ、さぐるようにして、ビクビクしながら降りていった。

 地下室は四、五坪の広さで、まわりに木の棚があり、酒瓶や、いろいろながらくたものが詰めこんであった。そのまんなかに三坪ほどの、なにも置いてないコンクリートの床が見え、その一方にトタン板をひろげて、セメントと砂利をまぜたあとがあった。そのそばにカンテラを置き、ツルハシやシャベルが立てかけてある。また一方の隅には古いコンクリートの砕けたのが山のように積んであった。

 伊東はパジャマ姿で、床のまん中に四つんばいになって、大きなコテで、流したセメントの上を、平らにこすっているところであった。

「伊東君、いったい、なにをしているんだ」

 わたしは、はげしい声で呼びかけた。

 伊東はゆっくり顔をあげ、わたしたちの方を見て、あのメフィストの微笑を浮かべた。それが赤ちゃけたカンテラの逆光線を受けて、異様にまがまがしいものに見えた。

「なあに、ちょっと素人細工をやったのさ。下から水が湧き出してくるんでね。だが、もうすんだよ」

 わたしは、そこだけ色のちがっている新ら(sic!)しいセメントを見た。不規則な長方形で、ちょうど人間が寝たぐらいの広さである。

「奥さんはどうしたんだ」

 普通ならば、わたしはそんなことをきける立場ではなかった。しかし、この異常な雰囲気の中では、世間なみの常識など、どこかへすっ飛んでしまっていた。

 伊東は答えなかった。四つんばいになっていたのが、ウーンと腰をのばして立ちあがり、汚れたタオルで、セメントのついた手をこすりながら、むっとした顔つきで、おしだまっていた。

「伊東君、野間君には答えられないかもしれんが、おれならいいだろう。ほんとうに奥さんはどこにいるんだ」

 酒巻が、おだやかに、もう一度尋ねた。

 すると、伊東は不承ぶしょうに顎で階上をしゃくってみせた。

「どっかにいるよ。おれはあいつとはずっと口も利かないのだ。あいつの方でも、すまないと思うのか、なるべくおれに顔を見せないようにしている……なんだったら、君たち、探してみたまえ」

 わたしは探してもむだだと思ったが、酒巻がしきりに袖を引っぱるので、一緒に探してみることにして、伊東を残して、階段をのぼった。

 それから 一、二階とも、部屋という部屋のドアを、かたっぱしからひらいて、探したが、美耶子の姿はどこにも見えなかった。

「きみ、いないにきまっているよ。早くもどらないと、あいつ逃げてしまうかもしれない」

 わたしはまたあきらめきれないような顔をしている酒巻をせきたてて、もう一度地下室へ降りて行った。

 伊東は逃げもしないで、もう平らになっているセメントの上を、コテで念を入れてこすっていた。

「奥さんはいないよ。君は、あの人を、いったいどこへ隠したんだ」

 そうどなったわたしの声は、激情のためにおそろしく震えていた。

「どっかへ外出したんだろう」

「そんなことはない。女中のシゲと、さっき門で会ったが、奥さんは一間にとじこめられているといった。外出してないことは明き(sic!)らかだ。ところが、いま調べてみると、鍵のかかったドアなんて一つもない。どの部屋もみんな見ることができた。さあ、どこへ隠したんだ」

「君にそんなことを聞く資格があるのか」

 伊東は少しも激情を示さなかった。いまもあのメフィストの笑いをつづけていた。

「おれが何かしたということとは別の問題だ。もっと大きな問題だ。それから、もう一つ聞くが、シゲになぜひまをやったんだ。それと、奥さんがいなくなったことと、なにか関係があるんじゃないのか。シゲがいては都合がわるいことがあるんじゃないのか」

「おい、野間、君にそれを聞く資格があるのかといってるんだ」

「じゃあ、おれが聞く。いま野間君の尋ねたことに返事をしてくれ」

 酒巻が、かれにしては精一杯の強い口調でどなった。

 伊東は傲然として突っ立ったまま、だまりこんでいた。

「よしっ、おれは調べてみる。もう我慢ができないんだ。酒巻さん、君は伊東が動けないようにおさえつけていてくれっ。おれはここを掘ってみるんだ」

 わたしは、そこに立てかけてあったシャベルを取って、新ら(sic!)しいセメントの部分を掘り返しはじめた。

 まだ乾いていないので、そんなに手間はかからなかった。じきに女の寝間着らしい布の一部が見えてきた。

 やっぱりそうだった。ああ、わたしの推察は的中したのだ。

 わたしは、この異常な墓掘り仕事を、夢中になってつづけた。だんだん全身があらわれてきた。からだを傷つけてはいけないので、伊東の捨てたコテを拾って、注意深く掘り進んでいった。

 そして、ついに全身が現われた。顔の部分もはっきりわかるようになっていた。

 不思議なことに、伊東は少しも逃げようとはしなかった。酒巻にうしろから羽搔締めにされたまま、相変わらずメフィストの微笑を浮かべていた。

 カンテラの光はセメントの穴の中まで届かないので、そこは非常に暗かった。わたしは注意してコテを使っていたのだが、つい手先が狂って、美耶子の顔に強く当たってしまった。

 わたしはギョッとして手をとめた。顔を傷つけた心配のためではない。そんなことではない。もっと変てこな途方もない驚きであった。コテがそこに当たったとき、柔かい人間の肉体ではなくて、なにか固い物質をこするような、妙な音を立てたからである。

 わたしは一瞬間にその真相を悟った。なんだか高い屋上から突きおとされたような感じだった。それは、限りない驚き、というよりはむしろ恐怖に近いものであった……そこに埋まっていたのは一箇の人形にすぎなかったのだ。

 その同じ瞬間に、地下室の中に、おそろしい笑いが爆発していた。

「ワハハハハ……どうだ。二人とも、すっかり一杯食ったな」

 この勝利の叫びは伊東の口からほとばしったのだ。ああ、なんということだ。これがすべて伊東の企みに企んだジョークだったのか。わたしたちは、あまりのことに、物を考える力さえ失って、ぼんやりと突っ立っていた。茫然自失。完全に一敗地にまみれたのである。

 伊東は階段をかけ上がって、「オーイ、美耶子……」と呼びたてた。そして、しばらくすると、おそらく押入れかなにかに隠れていたのであろう(さっき、わたしたちは、そこまでは探さなかった)美耶子が伊東につれられて、階段を降りてきた。

 伊東のうしろに隠れるようにして、地下室に降りたった彼女は、わたしの気のせいか、青ざめ、面やつれして、悲しげな顔をしていた。無理にニッコリ笑って見せたが、一とことも口は利かなかった。

 わたしたちは、敗北感だけではなく、もっと複雑な意味で、その場にいたたまら(sic!)なくなっていた。普通のジョークなら、笑って乾盃でもするところだが、この深刻なジョークに、そんな気が起こるものではない。わたしたちは、ほうほうのていで、挨拶もそこそこに、伊東家から逃げ出したのである。


空気男の推理(一)


 そのことがあってから、伊東錬太郎の生活が一変してしまった。ジョーク・パーティもまったくひらかなくなったし、ジョー力ー・クラブも、うやむやのうちに解散したも同然となった。

 わたしはむろん美耶子に会いたくてたまらなかったけれども、伊東に現場を見られた深刻な恥か{{sic}]しさと、地下室での敗北感にさまたげられて、伊東のうちを訪ねる勇気はなかった。

 だから、わたしが直接見聞したわけではないが、元のジョー力ー・クラブ員たちから、かれらが伊東家を訪問したときの索漠たる模様を伝え聞いていた。

「訪ねるとね、不承ぶしょうに会ってはくれるんだよ。しかし、書斎にも通さない。客間で追っぱらわれるんだ。女中がいないので、お茶も出せませんといって、ぶすっとしているんだ。まるで人が変わってしまった。あの様子じゃあ、奥さんはまだ監禁されてるのかもしれないぜ。あの男、雄弁だろう。その雄弁家がだまりこくっているんだから、こっちは物がいえない。結局、不愉快になって帰ってしまうのさ」

 愛妻家の戸籍課長が、一度わたしのアパートを訪ねて、そんな話をしていった。

 その当座、今までわたしのところへこなかったメンバーも、次々と顔を見せた。

 事件の中心であるわたしが、どんな様子をしているかを見にくるのである。わたしはメンバーたちには、隠しだてしないで、すべてのことを話してやった。それらのメンバーたちは、同じ好奇心から伊東の顔も見に行っているのだが、その訪問のときの話は、戸籍課長の話と大同小異であった。伊東は元の仲間の誰にも、一切会いたくないという意志を、無遠慮に表明しているのだ。

 美耶子はごくまれには顔を出すらしいが、誰が訪ねたときにも、一緒になって話をするでもなく、だんまりで、夢遊病者のように立ち去ってしまうという。これこよって想像すると、彼女はときには監禁を解かれることもあるらしい。だが、多くは、やはりどこかの部屋にとじこめられているのであろう。

 わたしたちはこのままジョーカー・クラブをやめてしまうのも残り惜しいので、伊東を除いた六人のメンバーでときどき集まりを催すこともあった。その会場には酒巻のやっている料理屋の一室を使った。ほかのメンバーは適当な部屋を持っていなかったからだ。

 酒巻は精一杯御馳走してくれたが、どうも話がはずまなかった。やっぱり伊東は会を運行する中心人物の性格を持っていたのだ。伊東というリーダーのいなくなった集まりは、実に淋しかった。われわれもジョーカーの資格は多少もっていたのだが、伊東に比べたら問題にならない。伊東ほどの創意ある企画、豊富な話題を持っているものは一人もなく、話に詰まって、ともすれば座がしらけた。だんだん集まりが悪くなり、いつとはなく、この第二次のジョーカ・クラブも解散になってしまった。それには、そのころになって、太平洋の戦争が日本本土に及んできて、空襲もだんだんひどくなり、東京の人々は縁を求めて田舎へ疎開をはじめていた。そういう物情騒然たるなかでジョーカー遊びもあるまいという事情もあった。

 事件から 一、二ヵ月のあいだ、わたしは美耶子のことが忘れられないで悶々として暮らしていた。多くのときは、アパートの四畳半に寝そべって、天井ばかり眺めていた。

 よく考えてみると、こういう結果になったことは、必らずしもわたしの完全敗北ではなかった。もし完全敗北ならば、伊東はクラブづきあいをよしもしないし、美耶子を監禁もしなかったであろう。美耶子はまだわたしに心惹かれているのだ。それをよく知っているので、伊東は彼女を監禁しなければならなかったのだ。地下室の人形事件では、かれが勝者であったにもかかわらず、こういう結末になったのは、美耶子がわたしに心惹かれているためだとしか考えられない。

 もっと思いすごせば、あれ以来、美耶子は伊東への愛情を拒絶しつづけているのではあるまいか。それが、かれをこれほどまでに怒らせているのではないだろうか。

 そう考えると、わたしは一層美耶子に会いたくなった。会って彼女の真意を糺したくなった。しかし、電話はだめだし、手紙も伊東に開封されるだろう。せめて女中でもいれば、媒介にする手もあるのだが、今はその女中さえも置いていないらしい。

 出入商人を利用するのはどうだろうか。それも考えられる。だが、なによりも、わたし自身の眼で彼女を見るのが最も必要なことではあるまいか。一と目見交わしただけでも人の心はわかるものだ。

 それからというもの、わたしは毎日々々、伊東の家のまわりを、悲しい犬のように、うろつき廻った。いくら空気男のわたしでも、この愛情だけは忘れることができなかったからだ。なるべく目立たない服装をして、ハンティングをまぶかにかぶって、散歩の人と見せかけて、あの家のまわりを、ぐるぐると廻り歩いた。

 わたしはなぜか、美耶子は二階の寝室にとじこめられているものと思いこんでいた。寝室の窓は、建物の横手にひらいていたので、わたしは、コンクリートの塀越しに、その窓の下に佇むことが多かった。

 幾日も幾日も通よ(sic!)いつめたが、ある日の夕方のこと、ついに目的を達した。窓のカーテンを半分ほどひらいて、美耶子がそとを覗いていたのである。

 わたしは動悸をはやめながら、下から彼女の顔を凝視した。早くこちらを見おろしてくれと念じながら、石のように立ちつくしていた。

 やっと、彼女の眼がこちらを見た。距離があるので細かいことはわからなかったが、美耶子は痩せて青ざめていた。なによりも悲しかったのは、その青い顔が狂人のようにうつろであったことだ。眼はたしかにわたしを見ているのだが、その眼にもなんの表情も現われていなかった。

 二人は長いあいだ顔見合わせていた。しかし、彼女の表情には幽かな動揺も現われないのだ。そして、その幕切れが恐ろしかった。美耶子は窓から片手を出して振ってみせた。あちらへ行けというのだ。「伊東に見られるといけないから」という意味には、どう考えても解釈できなかった。まるで路傍の人のように、乞食かなんぞにして見せるように、ただ「あっちへ行け」といっているにすぎないのだ。

 こんなはずはない。もし彼女が正常な心を持っているならば、こんなまねをするはずはない。気が狂ってしまったのだろうか。それとも、伊東の執拗な呵責に、気も心もくずおれてしまったのだろうか。

 美耶子は手を振ったあと、ピシャッと窓をしめ、カーテンを閉じてしまった。わたしは横っ面を平手で張られたような気がした。しかし、それでもまだあきらめきれないでそれから長いあいだ、日が暮れるまでも、塀のそとに立ちつくしていたが、美耶子の姿は二度と見ることができなかった。わたしは絶望してアパートに帰った。

 わたしはやっばり空気男であった。あのとき、どうしてそれに気かつかなかったのであろう。漠然としたお化けのようなものが、心の隅にわだかまっていた。しかし、長い長いあいだ、わたしにはそのものの正体がわからなかったのだ。

 わたしは事件があってから二ヵ月ほど、天井眺めの棄てばちな日を送っていたが、空気男の取柄はあきらめの早いことであった。つまり愛情すらも忘れっぽいのである。そんな男としては、美耶子への愛情は、生涯にまたとないほどのものではあったが、わたしは少年時代から、失敗に慣れていた。いつも、その痛手を早い忘却がいやしてくれたが美耶子のいとしい面影も、いつとはなく、わたしの心の表面から薄れて行った。それに伴って、あのメフィストのように賢い伊東のおもかげも、そして、プラクティ力ル・ジョークというものの面白さも。

 事件から二ヵ月ほどすると、伊東夫妻が、あの高樹町の洋館を売って、どこかへ引っ越して行ってしまった。わた しは、久しぶりに訪ねてくれた酒巻から、それを聞いた。

 そして、空き家になった西洋館を見に行く気にもならず、あのおもむきのある建物さえも、記憶から薄れて行った。


空気男の推理(二)


 わたしが、深夜ガバと蒲団からはね起きるほどの衝撃にうたれたのは、それからまた一ヵ月ほどたってからであった。

 わたしは空気男といわれているけれども、抽象の論理は好きでもあり、いささか得意でもあった。論理の組み立てにも創意というものはある。その創意が、わたしの場合は、床にはいって半醒半睡のおりに湧き上がることが多かった。青年時代、昼間はどうしても解けなかった数学の問題がそういう半醒半睡のときに、ハッと解けることがしばしばあった。

 その日、わたしは読書に夜ふかしをして、眠りにつこうとしたのは深夜の一時ごろだった。

 うとうとと半醒半睡に陥ったとき、伊東夫妻の秘密が、瞬間にわたしの心にひらめいたのだ。

 わたしはいきなり蒲団の上に起き直って、その前後の論理を考えた。一時間も二時間も考えていた。そして、結局それにまちがいないという確信をえたのである。

 わたしはその翌日、酒巻の店に電話をかけて、非常に重大な話があるから、すぐアパートへ来てくれないかと頼んた。ジョーカー・クラブのメンバーでは酒巻が一番懇意だったし、いろいろな意味で、この秘密を打ちあけるのには、かれが最適任者であった。

 昼すぎ、酒巻はあの太っちょのあから顔をてらてらさせて、わたしのアパートへやってきた。二人は同じ机に顔つき合わせて、ドアのそとや、壁一重隣へ聞こえないぐらいの声で話し合った。話手は主としてわたしだった。

「ぼくはゆうべ、非常な発見をしたんだ。そして、充分考えてみたが、あらゆる論理が、その発見と一致するのだ。発見というのは、むろん伊東夫妻の秘密についてだよ」

 酒巻は聴き手にまわって、額に皺をよせて、じっと聴き耳を立てていた。タバコをしきりにふかした。

「先ずこういうことがある。君も想像しているように、美耶子とわたしとは愛情の関係を結んだ。それを伊東に見つけられたんだが、この愛情はぼくの方だけの一方的なものではなかった。美耶子の方でも、ぼくを深く愛していたことは明き(sic!)らかだ。その美耶子がだよ、たとえ半分は監禁されていたとしても、ぼくになんの連絡もとれなかったというのは、おかしいじゃないか。

 ぼくの方ではいろいろ連絡を考えたが、それはむつかしかった。電話でも手紙でも、伊東に横取りされる心配があるからね。しかし、美耶子の方から電話したり、手紙を出すことは必ら(sic!)ずしも不可能ではなかったと思う。たから、彼女は連絡がとれなかったのでなくて、とろうとしなかったと考えるほかはない。まちたまえ、それには、もっと確かな証拠があるんだ。ぼくは堪えかねて、伊東のうちのまわりを、幾日も幾日も、うろつき廻ったことがある。そして、或る日、とうとう、二階の窓から覗いている美耶子と顔を合わせたのだ」

 わたしは、あの日のことを詳しく話して聞かせた。酒巻はわたしの執念に驚いたらしいが、なにも言わなかった。

「彼女が気でも狂ったのなら別だが、そんな態度は、ぼくには考えられないことだ。もう一つ思い出してくれたまえ。地下室に埋めたのが人形だとわかったあとで、伊東は美耶子を連れて降りてきたね。あの美耶子の顔を思い出してくれたまえ。いくら監禁されて、やつれていたといっても、あれはぼくらの知っている美耶子とは、まるで別人のようだったじゃないか。

 ぼくが事件後、美耶子を見たのは、この二度きりだが、いま考えてみると、二度とも彼女の顔をはっきり見ることはできない状態だった。一度はあの赤ちゃけたカンテラの遠くからの光線。一度は塀そとから二階の窓への遠見だった。

 これらのことは、なにを意味するか。むろん君も気づいただろう。事件後の美耶子は替玉だったのさ。天才的ジョーカーの伊東のことだ。美耶子さんとそっくりの女をどこかから探し出してくるのは、必ら(sic!)ずしもむつかしいことじゃない。替玉が窓から顔を見せて、手をふるなんて、シャーロック・ホー厶ズの『<templatestyles src="Ruby/styles.css" />(ぶな)屋敷』だよ。伊東はあの探偵小説から着想したのかもしれない」

 そのとき、酒巻がいぶかしそうに、口を入れた。

「フーン、替玉だったのか。しかし、それじゃ、本ものの方はどこへ行ったんだ?」

「殺されていたのさだから、本ものをぼくらに見せようたって、見せられなかったのさ」

「君には、どうして、それがわかるんだ」

「ゆうべ眠りかけているとき、ぼくのくせのインスピレーションで、突然、気がついたのさ。だが、もう少し聞いてくれ。まだまだデータがあるんだ。

 いいかい、伊東はあの直後、なぜクラブを解散してしまったか。クラブの連中が遊びに行ったとき、なぜ客間だけで追い返したか。それは、なが居させては替玉こ気づかれる、心配があったからだ。しかし、このごまかしも、二た月でせい一杯だった。あらゆる危険を予期しながら、二力月も我慢していたのは、さすがに伊東だったよ。

 まだある。ずっと前に義手義足の男をつれてきて、パーティをひらいたことがあるね。あのとき食事のあとで、伊東が講義をしたのを覚えているだろう。その中で、ジョークというものは犯罪につながっている、犯罪者のトリックはジョーカーのトリックと同じだと言った。そして、自分も犯罪のトリックを考えるときがくるんじゃないかと思うと、おそろしいと言った。あの話は、いわばかれの一つの予言みたいなものだった。

 では本ものの美耶子をどう処分したかということだが、それが、ジョーカーの天才が考えつきそうな手なんだよ。ぼくはみんなかどうしてそこへ気がつかなかったかと、不思議に思うくらいだ。

「わかったっー!」

 酒巻があから顔を白くして、座蒲団の上から飛び上がるようにした。

「むろん、手品師の君にわからなきゃウソだよ。手品の種は二重底さ。いや底はないが、二重の隠し方さ。もう一ついえば、一度探した場所は二度探さないという心理を利用したのさ。

 あいつは、美耶子を殺して、地下室のコンクリートを掘りおこし、ずっと深い所へ埋めたんだ。その上に土をかぶせておいて、そのまた上に人形を寝かせて、新しいセメントを流したのだ。どうだい、ジョーカーの心理として、こいつは非常に誘惑的なトリックじゃないだろうか」

「ウーン、そうか。人形を死体の上に置いたか。その上の方の人形たけをわたしたちに発見するように仕向け、大がかりなジョークとわかって大笑いというわけだね。このトリックはジョーカーがやったから、成功したんだな。よくもここまでやった。さすがジョークの大天才とくる。だが普通の人間が、こんなトリック使ったら、子供だましで、いっぺんにバレちゃっただろうね」

「そうだよ。あいつがジョーカーだったから、一応うまく行ったんだ。ジョークが絶好のカムフラージになった。だがよく考えてみると、このジョーク、一向に映えないジョークだったね。なぜといって、見物は君とぼく二人きりだったじゃないか。ジョ—力ーは虚栄心が強い。できるだけ多くの人に、自分のジョークを見せたがるものだ。ところが、この人形ジョークは、一方に美耶子とぼくのスキャンダルがあるので、人には知らせられない。君もぼくもだまっていることは明き(sic!)らかだった。ね、これがまた一つの論拠になるわけだよ。虚栄心の強いかれが、あれだけの大がかりなジョークを企らんで、たった二人きりの見物で満足するはずがない。

 この心理からいっても、人形ジョークは、死体隠蔽のカ厶フラージだったことは明き(sic!)らかだよ」

 わたしが話し終ると、酒巻はしばらく眼をつむって考えていたが、困ったような顔をして、こんなことを言った。

「わかった。君の推理はどうも当たっていそうだ。あいつは、君が掘り返したセメントを、元通りに塗って、あの家を売ったにちがいない。ところが、困ったことには、あのうちには、いま別の一家が住んでいる。地下室を掘らしてくださいといったって、断わられるにきまっているよ。とにかく突拍子もないことだから、こっちが気ちがい扱いされるのがおちだろう。なにか名案はないかね」

「名案はないよ。警察に知らせて、警察の手で掘ってもらうしかない」

「それだがね。警察にしたって、わたしたちを信用するかどうか」

「警察なら、推理の順序を話せばわかってくれるかもしれないよ。だが、空気男の若造のおれだけじゃダメだ。そこで、君に来てもらったんだよ。年配で、ちゃんとした商売を持っていて、分別くさい顔してる君と一緒なら、まさか気ちがい扱いもされまい。だからね、先ず君に詳しい話をして、納得させた上、警察へというのが、おれの段どりなんだよ」

「そうか、なかなか順当に考えたな。仕方がない。いっしょに行くことにしよう」

 そして、わたしたちは所轄警察へ出かけていったのだが、警察は最初は相手にしてくれなかった。しかし、酒巻が練(sic!)れた物の言い方で、諄々として説いたので、捜査主任もやっと腰をあげ、人夫をつれて現場へ出向くことになった。そして、現在の居住者の承諾を得て、地下室を掘ってみたが、人間の死体らしいものはなにも現われなかった。できるだけ深く広く掘り起こしたのだけれども、それらしい形跡は少しもなかった。わたしは胸をなでおろすような、残念なような、変てこな気持を味わったが、しかし、深い疑念はまだ晴れなかった。二重底のトリックではなかったけれども、美耶子の死体は、どこかに隠されているにちがいないと信じていた。庭か、建物の壁の中か。しかし建物を壊すわけにも行かないので、せめて庭だけでもと頼んだが、警察はもうわたしたちのいうことを聞いてくれなかった。同行してきた刑事は、庭を一廻り歩いてみて、どこにも土を掘り起こしたあとはないといった。人夫を床下にもぐらせてもみたが、なんの発見もできなかった。

 しかし、伊東の突然の移転には、なにかしら怪しいところがあった。現在の家屋の持ち主に聞いても、近所の人たちや運送屋などを調べても、伊東の移転先はわからなかった。あとで郵便局にも聞き合わせたが、郵便物転送先の通知は来ていなかった。殺人が行なわれたかどうかは別として、前後の事情がいかにも不審に思われたので、警察も捨ててはおけず、一応、伊東錬太郎の行方捜査の手続きをとった。

 しかし、それきりであった。伊東の行方はいつまでもわからなかった。空襲の被害が日に日にひどくなっているおりから、警察は、戦争に少しも関係のないこの小事件に、いつまでもかかり合ってはいられなかった。結局、わたしたちの訴えは、うやむやのうちに葬られてしまったのである。

 だが、わたしの疑念は少しも薄らがなかった。死体を隠したのが家の中でないとすれば、河かもしれない。海かもしれない。山の中かもしれない。いや、そんな遠いところを考えなくても、地下室の人形事件のころには、もう空襲がはじまっていて、東京の方々に、爆撃による廃墟ができていた。それらの地域には、建物の土台や、煉瓦造りの残骸が横たわり、血は流れ、人肉が飛びちっていたのだ。死体を隠すには、なんと恰好の場所ではなかったか。

 わたしはそれを確信していた。伊東は美耶子を殺したにちがいないのだ。前後の事情がそれ以外の解釈を許さなかった。伊東の心理はそれ以外に解くことはできなかった。わたしの直感と、そして理論とが、この結論を疑い得ないものにしていた。

 そのころは、警察も国防に狂奔していた。スパイの摘発、民心の安定、被爆地帯の跡始末、闇売買の取り締まり、やることは山のようにあった。個人的犯罪の捜査がおろそかになるのはやむをえなかった。新聞は戦時の個人的犯罪の減少を、愛国心のあらわれとして謳歌していたが、犯罪が行なわれなかったのではない。手が廻らなくて、それが摘発されなかっただけのことだ。伊東は運がよかったのだ。


宇宙神秘教


 あれから四年が経過した。戦争が終って、もう三年であった。

 戦争の末期、わたしは東京に居たたまれなくなって、田舎の母の家に逃げ出したが、そこで招集を受け、北支へつれて行かれた。三ヵ月ほどで病気になって送還されたけれども、わたしは外地の戦争を経験したのである。軍隊での空気男が、どんなにみじめなものだったかは、また別の話になる。

 戦争は、やっぱり、人間を変えるものだ。それに、母の家や僅かの貯えも無に帰し、わたしは働かなければ食えない身の上になっていた。敗戦の一年あまりのち、わたしは母をつれてバラックの東京へ出て職を求め、三流新聞の記者に採用された。一流紙でないところに、かえって味があった。わたしは記者生活を面白がっていた。

 そのころ、戦後の新興宗教というものが、話題を賑わせていた。ある日わたしは、社会部長から、そういう新興宗教の一つである宇宙神秘教本部の実相をさぐることを命じられた。

 わたしは写真班をつれて、渋谷区穏田にあるその本部へ出かけていった。

 本部が立派なのには驚いた。<templatestyles src="Ruby/styles.css" />湾曲(わんきよく)した大げさな屋根の、寺院と神殿とを混ぜ合わせたような本建築で、本殿は五十畳も敷ける広さ、まっ白な木の香と青畳の匂いがすがすがしかった。

 受付け係りみたいな白衣の男に来意をつげると、先ず本殿に案内された。正面に一段高い上段の間というようなものがあって、その境に青々とした<templatestyles src="Ruby/styles.css" />御簾(みす)がさがっていた。

 広間には百人以上の信者が坐っていた。御簾があがって、教主の顔をおがむのを待っているのだ。老人が多かったが、若い会社員ふうの男や、立派な服装をした奥さんらしい女もいた。老人の中には、白い八字ひげを生やした旧将軍といった風格の人も見えた。わたしは写真班とならんで、その最前列に坐った。

 しばらくすると、「シーッ」というけいひつの声がして、静かに御簾が巻きあげられた。

 御簾の中には、神官のような奇妙な衣裳をつけ、冠をかぶった男と、さげ髪の女が、お雛さまのようにならんで坐っていた。信者たちは低く頭をさげて礼拝した。

 わたしはその二人の顔を一と目見ると、思わず立ち上がりそうになった。男は伊東錬太郎、女は美耶子であった。この奇遇に、そして、死体となったはずの美耶子がここに坐っている不思議に、わたしは驚いても驚ききれない気持だった。

 だが、それは白昼夢ではなかった。美耶子は替玉ではなかった。わたしは<templatestyles src="Ruby/styles.css" />近々(ちかぐ)と彼女の顔を見ているのだ。本物であることは、彼女がわたしの顔に近づいたときの驚きの目遺いからも、よくわかった。その目遣いにはあらゆる複雑な意味がこもっていた。

 伊東も眼の隅でわたしを認めたが、なにくわぬ顔で平然としていた。かれはそのくらいのことで驚きをおもてにあらわす男ではなかった。

 あとで教主とインターヴューする手筈になっていたから、伊東に会って糺せばわかることだが、しかし、わたしはそれまで待ちきれないで、美耶子が生きていた不思議について、考えこんでしまった。わたしの推理のどこにまちがいがあったのかと、それを掘りさげようとした。

 教主は低い重々しい声で説教をはじめていた。雄弁家の伊東のことだから、その説教は手に入ったものだった。信者たちは、ときどき深くうなずきながら、感に堪えて聴き入っていた。

 宇宙神秘教というコケおどしの新宗教の教義は、宇宙は神秘なり、万物は神秘なり、人類は神秘なり、個々人も神秘なり、人々はこの意識せざる神秘力によって、難問を解決し、幸福をかちえ、万病をいやすことができる。人々は固有の神秘力をいかにして発現させるかを工夫しなければならない。力をあわせて万人幸福の理想境を作らなければならない。その神秘力発動の手段を工夫し、伝授し、訓練し、万人一体となって進むのが宇宙神秘教団である、大体そういう意味のものであった。

 どこかに共産主義めいた匂いもあり、一方では催眠術や心霊術ともつながっているような、怪しげな教義であった。そこには伊東錬太郎の体臭が感じられた。

 説教がすむと、横手の襖がひらいて、<templatestyles src="Ruby/styles.css" />三張(みは)りの琴が広間に運び出され、それをならべて、白衣に緋の袴の官女のような三人の少女かその前に坐った。そして、その琴を伴奏にして、教団の歌の合唱がはじまったのである。教主も教主裏方も、大きな口をあいて、それを歌った。信者たちはうろ覚えなので、教主のバリトンとお裏さまのソプラノの二重唱が、広間を圧して荘重に響きわたった。

 それがすんで、信者たちが帰りはじめると、わたしは奥まった教主の居間へ案内された。写真はそれまでに大体撮れていたので、写真班を帰らせ、わたし一人だけのこったのだ。居間といっても、一方に祭壇のある十畳の部屋で、伊東は白りんずの不断(sic!)着に着かえて、大きなちりめんの二枚座蒲団の上に、すました顔で坐っていた。裏方の部屋は別にあるのか、美耶子の姿は見えなかった。

 弟子の白衣の若者がお茶とお葉子を運んできた。伊東は

「このお方と内密のお話があるから、しばらく遠ざかっていなさい。襖はあけはなっておくほうがよろしい」と言った。

 弟子が立ち去るのを待って、伊東はニ枚座蒲団の上に、白りんずの裾をはだけて、大あぐらを組んだ。丨

「新聞記者とは変わったことをはじめたね。だが、お互に変わったもんだな」

 うちとけた口調だ。これもわたしには腑に落ちなかった。

「君とは知らないで、インターヴューにやってきたんだが、君とわかれば、話がちがってくるよ。積る話があるんだ」

 わたしも四年前の恥かしさを忘れて、ザックバランな口が利けた。

「君はあのとき、おれの殺人罪を想像したんだろう」

 伊東はズバリといった。その口調から、わたしは夢がさめたように、すべてを悟った。

「じゃあ、あれは君が作ったウソだったのか」

 すると、伊東は昔ながらのメフィストの笑いを浮かべた。

「おやおや、君はいままで、あれを信じていたのかい?」

「おい、伊東君、君は二重底、三重底、あんまり底が深ぎるよ」

「それがジョーカーの得意とするところだから仕方がないさ」

「じゃあ、全部お芝居だったのか」

「たった一つのことを除いてはね。あのことは、おれも美耶子も失敗だった。君たちの関係があすこまで行く必要はなかった。その一歩手前でよかったのだ。それでも、おれが誤解をして復警することは、充分ありうるんだからね。だが、美耶子はあれ以来完全におれに戻ってきた。魔がさしたんだよ。しかし、あいつは今でも君に好意を持っている。二度とあのしくじりをしない範囲でね」

 わたしはうちのめされた。しかし、伊東がウソをついて虚勢を張っているとは、まったく考えられなかった。もし美耶子が伊東に反抗していれば、自分を自分の替玉に見せかける芝居なぞ打てなかったはずだ。

「それじゃあ、あの替玉に見せかけて、二階の窓で手を振ったのも、美耶子さんのお芝居だったというのか」

「うん、あいつ案外お芝居が上手だった。別人かな? と疑わせるような化粧をしてね」

 世の中が激変をとげた四年間がたっていた。わたしはそれを聞いても、今さら美耶子を憎む気にはならなかった。だが、そのとき、一つの疑問が湧き上がってきた。

「すると、三段返しのとてつもないジョークを、君は最初から企らんでいたのか。美耶子さんをぼくに接近させたのも、美耶子さん自身が、ぼくにああいう態度を見せたのも、夫婦がグルになった企らみだったのか」

 さすがに、わたしの言葉は烈しくなった。

「おれの一世一代の大ジョークだからね。君はそういう相手としてはもってこいの空気男だった。偶然のことから、君の方で接近してきた。おれは君を教育した。そして、一歩一歩計画を進めて行った。それがほとんど成功したのだ。

 この大ジョークのためには、ジョーカー・クラブの連中と絶交したり、気に入っている家を安く手ばなしたりすることは、なんでもなかった。真のジョーカーというものは、ビブリオマニアなんかと同じで、ジョークのためにはどんな犠牲だって払うのだよ。

 たった一つ残念なことがあった。それはこの大ジョークが世間全体を驚かすところまで行かなかったことだ。なぜかというと、戦争中の忙が(sic!)しさで、警察も新聞も、あの殺人事件を取り上げてくれなかったことだよ。それも無理はない、すべてが情況判断で、物的証拠が一つもなかったんだからね。

 おれも一時は確証を残そうかと思った。美耶子と年ごろや体格の似た女の死体を、病院とか学校の解剖学教室から盗み出してきて、美耶子の着物を着せて埋めておくのだ。顔や皮膚の特徴がわからなくなってから、君たちに掘り出させるように仕組めばいいのだからね。だが、ぼくはそれはやらなかった。死体泥棒の罪を着るのがいやだった。本当の罪を犯すことは絶対に避けたかった。それでは折角のジョークが映えなくなってしまうからね。

 平時だったら、おれは警察に追われ、結局つかまったことだろう。しかし、つかまっても、少しも驚くことはない。おれはジョークのほかには、なんにもやっていないんだからね。被害者と思われた美耶子は、おれのそばにいて、仲よく暮らしているんだからね」

 わたしは、自分がもてあそばれたことも忘れて、この「ジョークの鬼」の言葉に、ほとほと感じ入っていた。あれが最初から企らまれた複雑なジョークにすぎないことは、もはやなんの疑いもなかった。

 そこへ、次の間から畳ざわりの音がして、美耶子がはいってきた。うしろに二人の緋の袴の官女ふうの娘を従え、その娘たちは一つずつ脚つきの客膳を捧げていた。

 美耶子は無造作に髪をたばねて薄化粧をし、普通の派手な和服に着更えていた。彼女はわたしの前にきちんと坐って、両手をついて、なにも言わないで丁寧におじぎをした。そして、顔を上げたとき、その眼の中に、羞恥と謝罪の色がたゆたっていた。やっぱり美しかった。

「いつもは教主裏方の奇妙な不断(sic!)着を着ているんだがね。きょうは君が来たので、おめかしをしたんだよ」

 伊東は意地のわるいことをいって、わたしの顔をジロッと見た。たが、かれに悪意のないことはわかっていた。

 据えられた膳の上には酒の徳利がついていた。美耶子はそれをとって、二人に酌をした。ニコニコしていたが、なにも言わなかった。

「おれの宗旨は酒肉を禁じないからね。信者から四斗樽の寄進もあるんだ。これはいい酒だよ」

 わたしは実に久しぶりに、かれと酒を汲み交わした。あの当時は洋酒ばかりだったが、和酒の方が親しみが湧くものだ。

「それで、いまは教祖さまってわけだね。宇宙神秘教とは、つけもつけたねえ」

 酒がはいって、わたしはなごやかな気分になっていた。

「衆生済度には、こういう大げさな名前がいいんだ。不思議なものでねえ、この教団は日に日に発展しつつあるんだよ。信者はまだ五千人ぐらいだが、いまに十万にはしてみせる。支部も横浜から伊豆半島に五ヵ所ある。これも全国にふやすつもりだよ。

 おれは信者から寄進を強請したりしない。だがお赛銭が自然に集まるんだね。おれは催眠術なんか使わないが、おれとしばらく話していると、煩悶がなくなるし、病気もなおるんだ。こっちが術をかけるわけじゃない。向こうの気のせいで、勝手になおるんだよ。人と人との微妙な関係だね。病気のなおったやつは、うんと御礼をもってくる。その上に信者を勧誘してくれる。ひとり病人をなおすと、平均百人の信者がふえると見ていいね。

 いまでは教団に相当の貯金ができている。これが拡張費になるんだ。田舎の安い土地を買って、そこに神殿を建てる。信者が集まってくる。近所に商家ができる。地価が上がるというわけで、この金儲けは無限だよ。中には付近の地価の値上がりをあてにして、神殿の敷地の寄進を申しでるやつもあるんだ。宇宙神秘教の前途は洋々たるもんだ。

 おっと、君は新聞記者だったねえ。むろん、こんなバカなこと書くんじゃないよ。よろしく提灯を持っておいてくれよ。どうだ、君も新聞屋なんかよして、この教団にはいらないか。幹部にして優待するぜ」

「むろん内幕なんて書かないよ。昔のジョーカーのよしみだからな。しかし、教団にはいることは、少し考えさせてくれ。ひょっとしたら気が向くかもしれないんだがね。なににしても、君には兜をぬいだよ。プラクティカル・ジョークの鬼、ぺテン師の王様だね。君はあのころプラクティカル・ジョークと犯罪とは、どっかで結びつくと言ってた。そして、君はそれを結びつけて見せた。こんどはジョークが神に結びついたじゃないか。すべて、一芸の極点は神か悪魔に結びつくってわけだな」

 わたしたちは二時間あまりも懐旧談に耽った。美耶子ははじめのうち、まったく口を利かなかったが、二人が酔うにつれて、少しずつしゃべるようになった。しかし、わたしには丁寧な言葉を使って、昔のようなはすっぱな調子は一度も出さなかった。

 夕方になって辞去したが、帰りぎわに、伊東は奉書に包んだかさ高いものをわたしのポケットに入れた。あとでひらいてみると、当時の金で十万円はいっていた。いまの百万円に当たるだろう。

 わたしは帰りの電車にゆられながら、何度となく溜め息をついていた。ああ、一介のプラクティカル・ジョーカーも、ついにここまできたのか。かれの三段返しのトリックは、この四段返しにつづいていた。それは神の道であった。かれこそはこの道の天才だ。いや一種の超人でさえある。それに反してこのわたしは、かれにあれほどもてあそばれながら、しかもなお、かれに尊敬の念すら抱いている、世にも哀れな空気男であった。


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